海外競馬情報 2022年07月21日 - No.7 - 3
フランス競馬界の巨人、アレック・ヘッドが97歳で死去(フランス)【その他】

 97歳で亡くなったアレック・ヘッドは、戦後競馬史において多方面で才能を発揮した偉大なホースマンである。

 平地・障害の調教師だったウィリー・ヘッドの息子、アレックは第2次世界大戦後に最も大きな成功を収めたフランスのホースマンの1人だ。凱旋門賞を4勝したほか、英ダービー、英1000ギニー、英2000ギニー、アスコットゴールドカップ、エクリプスSを制すなど、英国をはじめ世界各地で次々と勝利を収めたのである。

 しかし調教師としての功績は競馬界への貢献のわずか一部にしか過ぎない。戦後の欧州で最も重要かつ影響力のある生産者であり、クリケット・ヘッド、フレディ・ヘッドというフランス競馬界の重鎮2人の父および指導者でもあったからだ。

 引退生活の大半をバハマで過ごしていたが、ドーヴィルの夏競馬とセリの時期には常に存在感を現し、秋にはしばしばシャンティイに戻り、シーズン終盤のビッグレースに向けて馬を仕上げる娘クリケットに、賢明な助言を与えた。

 1924年にアレック・ヘッド(本名:ジャック-アレクサンドル・ヘッド)が誕生したとき、父ウィリーは第1次世界大戦の開戦前と終戦後にフランスの障害リーディングジョッキータイトルをすでに計4回獲得していた。なお戦中は英国軍に所属した。

 ウィリー・ヘッドの父(同じくウィリアムという名)は英国からフランスに移住してきた人物で、その妻ヘンリエッタは英国出身のヘンリー・ジェニングス調教師の娘だった。

 アレックは1940年~1947年にプロの騎手として活躍した。戦時中の燃料不足のため、父の厩舎があるメゾンラフィットからオートゥイユ競馬場まで自転車で移動することもしばしばだった。

 1944年5月、父が管理したニッキーの鞍上を務め、障害戦での初騎乗を勝利で飾った。1946年にはヴァトリス(Vatelys)に騎乗してオートゥイユ大ハードルを制し、1947年にもルパイヨンでこのビッグレースを制して、すぐに一流の障害ジョッキーとなった。

 この年、ルパイヨンはチャンピオンハードル(チェルトナム)でナショナルスピリットに1馬身差で敗れていたが、そのときも鞍上を務めていたのはアレック・ヘッドだった。

 ルパイヨンは平地競走で実力を発揮してきた馬であり、ハードル競走を試したのはただ気性を落ち着かせるためだった。同馬はその後、ドーヴィル大賞と凱旋門賞で勝利を収めている。

 凱旋門賞でルパピオンの手綱をとったのはフェルナン・ロケティである。1947年秋までに、アレックはオートゥイユでのひどい落馬事故、体重増加、そして妻ギスレーヌの強い希望により騎手を引退し、調教師免許を取得しようとしていた。23歳のときである。

 メゾンラフィットのマレンゴ大通りに厩舎を構えて調教活動を始めたヘッドは4年のうちに2人の大物馬主、アガ・カーン殿下とピエール・ヴェルテメールの所有馬を預かることになる。

 ヘッドがアガ・カーン殿下(現アガ・カーン殿下の祖父)と知り合うきっかけをつくった馬は、1952年の凱旋門賞を制したヌッチオである。

 ヘッドがヌッチオの馬主に紹介されたのは、ローマで冬を過ごしていたときだ。3歳だったヌッチオは、名伯楽フランソワ・マテのもとでフランスでのデビュー戦となった1951年パリ大賞で精彩を欠く走りを見せ、アレックのもとに転厩していた。

 その年の10月、凱旋門賞でタンティエームの2着に入ったことをうけ、アガ・カーン殿下はヌッチオを購買する。その後ウィリー・ヘッドのクライアントの1人である馬主、モハメド・スルタンの仲介でアレック・ヘッドは殿下に紹介された。

 ヘッドは殿下にヌッチオを手放さないように説得した。そしてこの馬を"とても調教しがいのある大きな黒い馬"と評していた。この新しい協力関係には、ガネー賞、コロネーションカップ、そして1952年10月の凱旋門賞での勝利という見返りが与えられた。なお、凱旋門賞ではこのレースの2勝目を目指す父ウィリーが手掛けたラミランブルを2着に退けた。

 調教師として凱旋門賞を4勝することになるが、その1勝目となったこのヌッチオによる勝利は、アレック・ヘッドが初めてリーディングトレーナーに輝く1952年シーズンのハイライトだった。なお、ヘッドはさらに凱旋門賞を生産者として3勝、馬主として1勝することになる。

 アガ・カーン殿下は2年のうちにすべての所有馬をフランスに移し、ヌッチオが凱旋門賞を制してからの10年間、ヘッドはエメラルドグリーンの勝負服を背負った多くの名馬を手掛けた。その勝負服は1957年にアリ・カーン殿下が父の死後に引き継ぎ、1960年にはその息子のカリム(現アガ・カーン殿下)が引き継いでいる。

 1955年秋、優秀なハフィズ(Hafiz)がクイーンエリザベス2世SとチャンピオンSを制した。この馬はタイムフォーム紙によりレーティング136を与えられ、ヘッドが調教師生活を終えるまで最高レーティングの管理馬であり続けた。

 ヘッドが手掛けた英ギニー競走優勝馬2頭はいずれもアガ・カーン殿下の自家生産馬である。ローズロワイヤルは1957年の英1000ギニーで同じ厩舎のセンスアリタを下して優勝し、その秋の第1回ムーランドロンシャン賞と英チャンピオンSでも勝利を重ねた。

 その2年後、殿下の種牡馬タブリーズ(Tabriz)の牡駒タブーン(Taboun)が英2000ギニーを制したが、仏2000ギニーでは惜しくも勝利を繰り返すことができなかった。

 ビュイソンアルダンは1956年に仏2000ギニーとジャックルマロワ賞のダブル制覇を果たした。またヘッドは1959年に、7月にすでにエクリプスSで勝利を挙げていたアリ・カーン殿下のセントクレスピンで凱旋門賞2勝目を達成した。

 ジョージ・ムーアが鞍上を務めたセントクレスピンはミッドナイトサンと同着とされた。上位5頭の着差がわずか½馬身内に収まるほどの接戦だった。

 しかし双方の馬の関係者が異議を唱えたことから、ロンシャンの裁決委員は馬場に新たに設置されたパトロールカメラが映し出した証拠に基づきセントクレスピンを優勝馬と裁定した。

 1960年5月にアリ・カーン殿下がパリにおいて交通事故で亡くなった直後、ヘッドはさらに勝利を収めることになった。その夏に、シャーロッツヴィルが仏ダービー(ジョッケクルブ賞)とパリ大賞を制し、シェシューン(Sheshoon)がアスコットゴールドカップとサンクルー大賞で優勝したのだ。

 新たなアガ・カーン殿下との協力関係は終了した。殿下は所有馬をフランソワ・マテのもとに送ったのだ。しかし1955年に調教拠点をシャンティイに移していたヘッドは、たった1人の大物オーナーブリーダーに依存しなくなっていた。そして1950年代をつうじてヴェルテメールの馬でも大成功を収めていたのだった。

 この関係は両家において受け継がれていくことになる。ヴェルテメールの有名な青と白の勝負服を背負う優良馬は、クリケット、フレディ、ヘッドの義理の息子であるカルロス・ラフォン-パリアスにより調教されていくのである。

 ヴェルテメール家の所有馬が初めてマレンゴ大通りにやってきたのは1949年のことである。当時、それらの馬はまだ同家のレーシングマネージャー、ネクソン男爵の名義で登録されていた。

 1955年、ヴェルテメール家の自家生産馬ヴィミーはロジェ・ポワンスレを背に、フランス調教馬として初めてキングジョージ6世&クイーンエリザベスS(アスコット)を制したことで歴史に名を刻んだ。そのときの有力馬としてマテが手掛けた英ダービー馬フィルドレイクを負かしている。

 ヴィミーの半妹ミジェットはフォレ賞とクイーンエリザベス2世Sを制覇することになる。ミジェットは長きにわたりアレックとクリケットのキャリアに影響をもたらした。ミジェットの孫娘マビッシュが英1000ギニーを制するなどG1・4勝を果たし、マクトゥーム殿下が初めて馬主としてクリケットの厩舎を訪れるきっかけとなったのだ。

 ヘッド&ヴェルテメールのコンビにとって、この時期の最大の勝利は1956年英ダービー(エプソム)の制覇だったことは間違いない。ラヴァンダンがレイ・ジョンストンを背に、激しい雨と26頭のライバルに立ち向かい優勝を決めたのだ。

 1950年代はフランス調教馬が英国の最高級のレースで驚異的な勝利を次々と収めた10年間であり、ヘッドはその先駆者だった。

 2004年に80歳の誕生日を迎えたヘッドはパリテュルフ紙のインタビューで、英国での勝利についてこう語っている。「マルセル・ブサック(オーナーブリーダー)が先頭に立って、多くの馬を英国に遠征させていましたね。当時は中東の大馬主がいない時代でした。英国の競走自体はずっとタフなものになっています。英ダービーを勝つには、偉大なオーナーブリーダーに協力してもらうことが必要です。今のフランスにはそのような人は片手で数えられるほどですね」。

 その頃はたしかに、英国だけでなくアイルランドの馬券購入者もヘッドが遠征させた馬に敬意を払うようになっていた時代だった。1956年~1959年の注目すべき時期に、ペデロバ、ブティアバ、フィオレンティーナがカラ競馬場の愛1000ギニーを制した。また、オメイヤドが愛セントレジャーを、アマントが愛オークスで優勝している。

 1958年、ヘッドはドーヴィル近郊のケネー牧場(Haras du Quesnay)を購入し、キャリアに新たな一章を加えることとなった。もともと米国人のウィリアム・K・ヴァンダービルトとアーサー・キングスレー・マコンバーが所有していたケネー牧場は戦争中にドイツ軍に使用されたのち、ほとんど廃墟と化していた。

 ヘッドはケネー牧場の購入について、戦争の前にこの牧場を訪れていたことが幸運だったと述べた。そうでなければ、同じ場所だと確信するのは難しかっただろうという。

 アレックの弟ピーターとともに共同出資者となった父ウィリーはただ、「こんなところを購入して私たちみんなを破滅させてしまうつもりか」と述べていた。

 ヘッドは繁殖牝馬群を築くだけでなく、当初180ヘクタールだった敷地内で種牡馬を供用することも最初から決めていた。1959年にラッキーディップが初めての種牡馬として供用された。

 1961年にこの牧場で生まれたルファビュリュー(父ワイルドリスク)により、早くも成功がもたらされた。オーナーブリーダーのギー・ヴァイズヴェレー(Guy Weisweiller)が所有したルファビュリューがウィリー・ヘッドに手掛けられ、1964年に仏ダービーを制したのだ。

 1966年にケネー牧場に戻って6シーズンにわたり種牡馬生活を送ったルファビュリューは、その後シンジケートが組まれてクレイボーンファーム(米国ケンタッキー州)で供用されることになった。

 ケネーにおけるルファビュリュー以降の種牡馬リストにはフランスの名種牡馬がずらりと並ぶ。ヴェルテメールの勝負服を背負って競馬場で異彩を放ったリヴァーマンやグリーンダンサー、ヘッドの妻ギスレーヌのベージュと黒の勝負服を背負ったベアリングやアナバーなどである。

 ケネーで生まれた牝馬も同様に重要な存在であり、1980年にデトロワ(馬主:ロバート・サングスター)、2013年と2014年にトレヴが凱旋門賞を制覇している。

 ヘッドの生産者としての成功の多くは、"スピードと骨格"が備わった馬を求めてケンタッキーに出向いたパイオニア精神によるものである。エトレアム牧場(Haras d'Etreham)のローラン・ド・シャンビュールもその探求に加わっていた。

 彼らの共同事業であるエキュリー・アラン(Ecurie Aland)はデトロワをはじめとする数々のトップクラスの勝馬を生産するとともに、1974年からド・シャンビュールが亡くなる1991年までの間に、英仏1000ギニー優勝馬ラヴィネラと仏オークス(ディアヌ賞)優勝馬ハーバーという2頭の名馬を所有した。

 3頭目はマティアラである。クリケット・ヘッドに手掛けられ仏1000ギニーを制したマティアラは、1996年8月にデルマー競馬場でエキュリー・アランにとって最後となるG1優勝を達成した。その直後に残りの馬は手放されることになった。

 ヘッドは生産部門と調教部門の両方で尽力したことから、1990年にサラブレッドクラブ・オブ・アメリカ(TCA)の終身名誉会員に選ばれた。その10年後には母国フランスからレジオンドヌール勲章のシュヴァリエを授与され、最高の栄誉を手にした。

 ヘッドの息子フレディは、1964年に驚異的な才能をもつ騎手としてキャリアをスタートさせた途端に衝撃をもたらした。一方、父ウィリーは成功を収め続けており、1966年に若干19歳の孫の断固たる騎乗でボンモの凱旋門賞優勝を達成し、総仕上げをした。

 1960年代がケネー牧場を構築するのにヘッドが存分に力を注いだ10年だったとすれば、そのあとはシャンティイのジェネラルルクレール大通りにある新しい厩舎から多くの強豪馬を送り出した10年だった。

 キーンランドのセリに進出したことも少なからず影響して、ヘッドは70年代を通じて数々のトップマイラーを手掛けた。仏2000ギニーをリヴァーマン、グリーンダンサー、レッドロードで、仏1000ギニーをイヴァンジカ、ダンシングメイドで制した。

 またヘッドは11年間に3頭の凱旋門賞馬を送り出した。1971年の仏オークスでは、自家生産馬のピストルパッカーがカンブリッツィアを最僅少差で破り、テレビ司会者のレオン・ジトロンが14分間と推定するシャンティイの裁決委員による審議の末に着順が発表された。

 凱旋門賞ではピストルパッカーにとって外目の16番ゲートからの発走が災いとなった。最終コーナーで6頭の外側を回らなければならず、才気あふれるミルリーフをとらえることができなかった。

 その5年後にイヴァンジカがヘッド家の名高い勝利を達成することになる。フレディが鞍上を務め、アレックにとって3度目の、ヴェルテメール家にとっては初めての凱旋門賞優勝を果たしたのだ。

 4歳牝馬イヴァンジカ(父サーアイヴァー)は、フレディを背に内ラチ沿いを走っており、残り2ハロンを切ってダッシュしようとしたときに行く手を阻まれたものの、見事な末脚を発揮して決勝線手前で6頭を抜き去った。

 1996年のインタビューでヘッドはこう振り返っている。「イヴァンジカがクロウとユースを簡単に破るのを見たので、ジャック・ヴェルテメールと私はスタンドから駆け下りました。決勝線を駆け抜けたあとに彼女がカメラマンの存在に怯えたのかフレディを落としてしまい、駐車場に向かって走り去ったことなど、知らなかったのです」。

 「今でこそ笑って話せるのですが、そのときはルールで定められている20分以内の騎手の検量のために彼女が戻らなかったら失格になるのではないかと、みんな気が気でなかったのです!」。

 アレックの調教師としての最後の凱旋門賞勝利は、雨の降る1981年にもたらされた。この勝利はヘッド家だけでなくムーア家の物語も完結させることなったと言える。ジョージ・ムーアの息子ゲイリーが騎乗して優勝したのだ。

 ヘッドがヴェルテメール家のために手掛けたもう1頭の凱旋門賞優勝馬ゴールドリバーは当時、フランス最強のステイヤーだった。1980年秋にロワイヤルオーク賞(3100m)を制し、1981年5月にカドラン賞(4000m)で優勝していた。

 これはヘッドが1960年に初めて試みた理論の正当性が、遅ればせながら証明されたものである。その当時、彼が手掛けたゴールドカップ優勝馬シェシューンが凱旋門賞の歴史においても屈指の厄介な重馬場で馬群を交わしたのだ。

 ヘッドは調教師・生産者・馬主として、競馬がもたらす喜びと悲しみを知り尽くしてきた。1971年の英ダービーでは、勝つ見込みが大いにあったブルボンがパドックで手がつけられない状態になり、発走ゲートまでの道中も御しがたいとぎれとぎれの動きを見せ、疲れ果ててレースで負けてしまった。アレックもフレディも屈辱的な思いをすることになった。

 そして1996年にマティアラが負った不可解な怪我である。米国で現役最後となるレースで骨盤を骨折し、骨片が動脈を傷つけてしまったことで出血多量となりマティアラは死んでしまった。

 これらの不幸よりもずっとひどかったのは、1962年11月のメゾンラフィットでのおぞましい一日である。オーストラリア人騎手のネヴィル・セルウッドが管理馬の1頭から落ちて、ヘッドの腕の中で亡くなったのである。セルウッドはわずか5ヵ月前にラークスパーで英ダービーを制したばかりだった。

 ヘッドは50年にわたる調教師生活で2,300勝以上を挙げ、1983年のシーズン終了後に調教師免許を返上した。

 娘と息子のコンビがヘッド家所有のスリートロイカスで凱旋門賞を制覇し、ケネー牧場の自家生産馬マビッシュで英1000ギニーを制したのを、彼はすでに目にしていた。父の調教に関する考えを受け継いで道を歩んで行ったのはクリケットだった。

 アレックは馬がレースに向けて仕上がっているのかを判断する際、いつも自分の目と攻馬手の言葉を頼りにしてきた。そして体重管理や獣医師の役割の増大を敬遠してきた。

 引退から30年以上も経っているのにその功績を認識される調教師はほとんどいない。しかし子どもたちによる知名度の維持とケネー牧場の継続的な成功のおかげで、ヘッドは夏のドーヴィルとロンシャンの秋のビッグレースでとても注目される存在であり続けた。

 世界中の一流生産者と関係を築いていたことが、種牡馬を牧場に呼び寄せるための鍵となった。2005年の英ダービー馬モティヴェーターへの彼の信頼は、ケネー牧場にこの馬を呼び寄せることにつながっただけでなく、生産者としての輝かしい宝石、凱旋門賞2勝馬トレヴを生み出すことにもつながった。

 2013年の凱旋門賞に向けてトレヴの評判が高まり、シャンティの調教場にはメディア関係者や好意を寄せる観衆が押し寄せていた。アレックとクリケット、そして厩舎長のパスカル・ガロッシュはトレヴを中心に緊密な関係を形成し、89歳のホースマンはいつも狩猟用のステッキに腰を掛けていた。

 屈指の最強のメンバーが揃った凱旋門賞をトレヴが制したとき、アレックはロンシャンのスタンドにある家族用ボックス席でクリケットのそばにいた。この日は、フレディが管理したムーンライトクラウドがフォレ賞でライバルを一掃していた。

 そして翌年の秋には、"トレヴは力が無くなっている"というあからさまな批判を打ち消すために戻ってきた。

 トレヴが2014年のヴェルメイユ賞で4着となったとき、彼はクリケットに向かって「凱旋門賞を勝てるよ」と飾らずに言った。

 半生をともにした友人、ピーター・オサリヴァン卿に電話をかけ、凱旋門賞の馬券を買うように呼び掛けた。誰もが疑問を投げかける中、90歳になった彼の目にまだ狂いはなかった。

 予想が的中したときの彼の目に浮かぶ喜びの涙は、あの歴史的な午後の決定的なイメージとなった。

By Scott Burton

[Racing Post 2022年6月22日「Alec Head: a giant of modern racing and father and mentor to more French greats」]