海外競馬情報 2021年06月22日 - No.6 - 2
永遠に若さを失わないシャーガーとスウィンバーン騎手(イギリス)【その他】

 サー・マイケル・スタウト調教師の下で遠征担当厩務員長として40年間務めあげることになるジミー・スコットは、当時10年目を迎えていた。彼はニューマーケットのレースコースサイドでのシャーガーの調教に感服した。そこで、まずまずのオッズがついているダービーの出走馬確定前の馬券を買ってみることにした。大穴は逃したものの、単勝17倍の配当金は新車のメルセデスを買えるほどのものだった。

 BBCテレビのメイン競馬司会者のジュリアン・ウィルソンは、4月の追い切りを見てびっくりしたので、冬に発売されていた単勝34倍の馬券を素早く購入した。手にした配当金は、ダービーの夜、ロンドンの一流レストラン『ポンテヴェッキオ』で将来の妻アリソンに贈るエメラルド・サファイア・ダイヤモンドがあしらわれた婚約指輪を購入するために使われた。

 オブザーバー紙の競馬特派員リチャード・バーリンは、春の素晴らしい追い切りのずっと前に、単勝オッズが34倍だったころからシャーガーを支持していた。3歳初戦のサンダウンのクラシックトライアルを10馬身差で楽勝した後には特に、アガ・カーン殿下の3歳馬に大枚をはたき続けていた。バーリンは読者に「ダービーで単勝9倍になっている今こそ、男らしく賭けるときです」と呼びかけた。そして彼自身、自信がみなぎる男のような賭け方をし、その儲けでサセックスに家を購入して「シャーガー」と名付けた。

 スコットもウィルソンもバーリンも、40年前のある晴れた日の午後ターフの象徴となったおおらかな白い顔をもつ鹿毛の馬に感謝していた。

 シャーガーはそれまでもそれ以降にもどの馬も達成しなかったことを成し遂げた。ダービーを10馬身差で制し、このレースの着差記録を打ち立てたが、それは彼の伝説的な地位とともに今も生き続けている。これはあの日、あのダービー、そして信じられない、忘れられない、悲劇のサラブレッドの物語である。

シャーガーが頂点に立ったとき

 シャーガーはこれまで存在した中で最も有名な競走馬かもしれない。1983年にアガ・カーン殿下のバリーマニースタッドからIRA(アイルランド共和軍)によって誘拐された可哀そうな動物である。身代金は支払われなかった。シャーガーにつながる手掛かりはなく、彼の最終的な運命や永眠の地は謎に包まれたままである。しかしダービーそしてこのスポーツの歴史の中で、シャーガーが巨像のようにそびえ立ち、崇拝するにふさわしい生き物であることは疑う余地がない。エプソムで彼はその運命の日にまさに君臨したのだ。

 彼のジョッキーもそうだった。シャーガーとウォルター・スウィンバーンは切っても切り離せない関係にある。まだ19歳だった彼は、単勝1倍台の1番人気馬とコンビを組んで世界一名高い平地競走、ダービーの初騎乗を果たした。スウィンバーンへのプレッシャーは相当なものだったにちがいない。見たところ、彼はそれをまったく感じていないようだった。

 アイルランドのトップジョッキー、ウォーリー・スウィンバーンの息子である彼は"クワイアボーイ(少年歌手)"の愛称で親しまれ、当時はまるで子どものようだった。それでも、検量室で最も尊敬されるスターの1人となるには年齢も実力も十分だった。しかし、彼がシャーガーのようなとんでもない才能を持つ馬とコンビを組むことは二度となかっただろう。これまでも、そしてこれからも、誰もできそうもないことである。

 私たちはあまりにも早くシャーガーもスウィンバーンも失った。スウィンバーンは2016年12月、ロンドンの自宅で悲惨な事故に遭って亡くなった。その5年前、彼は10代で達成した驚くべき勝利から30周年を記念したダービーの主賓としてエプソムに戻ってきた。そのとき彼はシャーラスタニやラムタラでの輝かしい勝利も振り返ったが、シャーガーは彼の心の中で最も鮮明に残っていて、多くの人が尋ねたいと思っていた馬だった。彼が語らなければならなかったのは、どのような物語なのだろうか。

 レスター・ピゴットも登場人物の1人である。シャーガーの鞍上にじっと座って愛ダービーを制し、スウィンバーンがロイヤルアスコット開催で騎乗停止処分を受けたことを最大限に活用した。シャーガー(父グレートネフュー 母シャーミーン)が2歳時に2戦したときも、ピゴットが手綱を取った。ニューベリーのデビュー戦では勝利を収め、ドンカスターのフューチュリティS(G1)ではベルデールフラッター(Beldale Flutter)の2着に敗れた。ピーター・ウォルウィンさえいなければ、彼はエプソムでも鞍上を務めたかもしれない。

 フレンチー・ニコルソンとレグ・ホリンズヘッドの下で見習騎手を務めて競馬を叩き込まれたスウィンバーンについて、スタウトは「ウォルターは1981年に私のために多くの勝利を挙げてくれました」と回想した。

 「彼はとても才能のある騎手でした。素晴らしい性格で抜群に美しい手をしていました。彼にささやかな前金を支払うと言ったのですが、ウォルターはまだ19歳ということもありますし、何が自分に一番良いのか分かっていなかったのだと思います。そうしたらP・T・ウォルウィンがセブンバローズの厩舎の主戦騎手に迎え入れるという好意的な提案をしてきました。私はグッとこらえて、"ここに来たほうがいい"と彼を諭さなければなりませんでした」。

 こうしてスウィンバーンはスタウト厩舎に所属することになった。スタウトは1978年に英オークスを制しており、シャーガーの3歳シーズンにはまだ36歳という若さだった。ビーチハーストステーブルに入厩した当初から将来性が明らかだった1頭の馬を、彼は見守っていた。

 スコットは「シャーガーは初日から才覚がありました。とても扱いやすい馬でした。彼が何か悪いことをしたという記憶がありません。ネコのようにおとなしい馬でした」と語った。

 後に調教師となるクリフ・ラインズは、当時シャーガーを担当する攻馬手だった。そして、追い切りでよく舌を出していたこの牡馬について同様の愛情を込めてこう語っている。

 「すべての面で素晴らしい馬でした。悪さをせず、調教を楽しんでいました。何かをするように頼む必要はまったくありませんでした。鞍上でじっとしているあいだに、彼はただそれをやってくれたのです」。

 ある朝、そんな風に彼が自ら動いて、びっくりさせられることがあった。いつもどおりのきちんとした素早い動作で、サンダウンのクラシックトライアルで優れたパフォーマンスを見せる準備ができていることを示したのだ。シャーガーの鞍上にいたラインズの頭の中では、その追い切りはサンダウンの1ヵ月前だったようだ。しかし調教師の記憶では違っている。

 スタウトは、「いや、そこまでのできではなかったですよ。たぶんその頃にはクリフはすでに感づいていて、馬券購入者に伝えていたのかもしれませんね」と語った。

 そうかもしれない。今や伝説となっているニューマーケットでの追い切りのあとに彼は確かに感づいていた。

 ラインズは、「彼は他の2頭に12馬身ほどの差をつけて、自らハミを取ってフィニッシュしたんです。信じられないような感覚でしたよ。言葉では言い表せません。誰もが興奮し始めました。その追い切りの後に、彼らがシャーガーのオッズが34倍のダービーの馬券を手に入れたときはなおさらです」と語った。

 サンダウンを目指しているときに彼らが"何か特別なものを持っている"と分かっていたことを、スタウトは認めている。サンダウンでの10馬身差の楽勝は、その後のチェスターヴァーズでの12馬身差の勝利という離れ業によって裏付けられた。

 スコットはこう語った。「神に誓って言いますが、少し加速するとかなりのスピードが出たのです。レースでも調教でもシャーガーのように急発進する馬を見たことがありません。びっくりするような馬でした。サンダウンの前のその追い切りで他の馬との間にできた距離は驚くべきものでした。その後、彼のオッズが17倍に下がっていたダービーの馬券を買いました。それで私は彼のおかけで新車のメルセデスを手に入れたのです」。

 信じがたいことだが、チェスターヴァーズの後もシャーガーのダービーの馬券はオッズ5倍で購入できた。そしてダービーデーには、彼のオッズは急落していた。

 それから起こることには必然性さえ感じられた。ほかに登録された牡駒18頭はいずれも、本命馬のオーラに近いものを何も持っていなかった。実際、ピゴットが選んだ珍しい北部地方からの有力馬で2番人気のショットガン(Shotgun)も3番人気のカラグロウ(Kalaglow)もダンテS(ヨーク)で敗れていた。あのマイケル・ジャービスが管理したダンテSの覇者ベルデールフラッターは出走できなかった。厩舎で脱走し、傑出した短距離馬ムーアスタイル(Moorestyle)と衝突し、道路で転倒して負傷したのだ。伊ダービー馬グリントオブゴールド(Glint Of Gold)は、1971年のダービー馬ミルリーフと同様にポール・メロンに所有されていたが、馬券では4番人気に甘んじていた。

 ITVのダービーデー中継の視聴者は、レースが近づいているときにシャーガーのオッズが1.1倍まで下がったのを目にした。CMのあいだにアンブルソレール(サンオイル)の宣伝が流れ、魅惑的な声の男が「より黒く日焼けするための唯一の方法は、太陽の下に長くいることだ」とアドバイスする。あとから考えてみるとひどいアドバイスだった。より良いアドバイスは、パドック解説を終えるときにジョン・オークシーにより与えられた。

 「サンリービルズ(Sunley Builds)、ゴールデンブリガディア(Golden Brigadier)、キングスジェネラル(Kings General)、シアーグリット(Sheer Grit)、クリュグ(Krug)などがすべて、この本命馬から10馬身以上離されてゴールしています。彼が1½マイル(約2400m)でもつことも、左回りで走ることも分かっています。彼のジョッキーは若いが、私に言わせれば、見事に有望な若者です。だから18番のシャーガーがガチガチの1番人気なのは当然のことなのです」。

 スタウトは今、あの暑いダービーデーを振り返って、当時のオークシーと同じように、「私たちは自信を持って臨み、何も問題がないことをただ願っていました」と述べる。問題はなかった。多くの馬が汗だくになっていた。厩務員のディッキー・マッケイブが見守る中、シャーガーは汗ひとつかいていなかった。ゲート入りを嫌がったフランスからの遠征馬リディアン(Lydian)とは違い、シャーガーはジョッキーと同様に物静かで穏やかだった。

 ウォーリー・スウィンバーンはこう語る。「朝、妻ドリーンと一緒に飛んで行きました。その後、ウォルターが調教での騎乗を終えて居眠りをし、大家さんが起こさなければならなかったことを知りました。その日の彼はとてもリラックスしていました。自信にあふれていました。マイケル・スタウトとアガ・カーン殿下は、シャーガーに乗せることで、彼に自信を与えたのです。そして何よりも、ウォルターは騎乗馬をすごく信頼していたのです」。

 それはさらなる居眠りのエピソードの説明にもなるかもしれない。スタウトは「ウォルターは私と一緒にエプソムに行ったのですが、車の後部座席に乗り込み、ニューマーケットを出発してからエプソムに到着するまでずっと寝ていたんですよ」と言いながら、思い出して豪快な笑い声を上げた。第202回ダービーの発馬機が開いた瞬間、もっといい思い出は作られた。

 エプソムでシャーガーがやったことを見ると、今でも鳥肌が立ちそうだ。それはシンプルで無慈悲で美しいものだった。

 レースがクライマックスに達したとき、スウィンバーンは騎乗馬に理想的なポジションを取らせていた。シャーガーは3番手を走っていて、リベレット(Riberetto)とシルバーシーズン(Silver Season)が先頭を争っていた。これらの馬が坂を下ってくると、ダービーはみるみるうちに変容した。まるで障害競走のような光景だった。敗れたライバルと次のライバルのあいだに隙間ができ、馬群は広がり列のようになってしまったのだ。

 グランドスタンドから見ると、よく目立つ白い顔のおかげでシャーガーがタッテナムコーナーで内ラチから離れて3番手につけているのが簡単に分かったはずだ。コーナーを回りきると、彼はゴールに向かい、ライバルを無慈悲に攻撃した。すると、ほんの数完歩でとんでもなく広いアドバンテージが生まれた。それはBBCラジオの実況であるピーター・ブロムリーにとって最も望ましいことだった。彼は出馬表を読むための眼鏡をチョブハムのホテルの部屋に忘れてきたので世界中のリスナーをがっかりさせるかもしれないと思っていた。しかし、眼鏡は必要なかったのだ。

 ブロムリーはこう力説した。「シャーガーはグングン進んでいます。4馬身、5馬身、6馬身、7馬身、8馬身引き離しています。残り2ハロン(約400m)でダービーは順位の変わらない行進のようになっています」。そのとき、先頭を走る普通とは違う馬が1ハロン(約200m)標識に近づき、彼の左手に続いている内ラチ沿いに大勢の人々が集まっており、ブロムリーは独特のとどろきわたるような声でこう告げた。「馬はたった1頭しかいません。他の馬を見るには望遠鏡が必要です!」

 望遠鏡があればシャーガーははるかに遠くにはっきり見えているだろうから、グリントオブゴールドに騎乗して勝ったと思っていた故ジョン・マティアスの役に立っていただろう。遠く離された2着馬がゴールに向かってとぼとぼと走っていたとき、スウィンバーンは左右を見て、下にいる驚くべき馬の首を力強く叩いた。ただ彼らとダービーの栄光の間には、まだ9完歩あった。この勝利は、4月にレースコースサイドで追い切りが行われた時点から決まっていたのかもしれない。

 アガ・カーン殿下が自らにとって初のダービー馬の手綱を取ってエプソムの神聖なウィナーズサークルに導く前に、スウィンバーンはITVのデレク・トンプソンに「私は超優良馬の乗客にすぎません」と語った。優勝馬を取り囲んでいたのは、マッケイブ、スコット、ラインズだった。調教師もそこにいて、次の目標は愛ダービーとキングジョージ6世&クイーンエリザベスSだということを確認した。シャーガーはその両方を余裕で制した。

 スタウトは、「正直なところ、私たちが期待していたとおりの結果を出してくれたので、全てが終わったときにはホッとしました」と述べた。そしてレース後のテレビインタビューでは、「スウィンバーンの愛撫が早すぎたので怒鳴りつけましたよ」とジョークを飛ばした。

 競馬ファンがシャーガーの鼻を撫でようと柵から乗り出しているとき、オークシーはこう語った。「今まで見てきた中で、信じられないくらい一番予想しやすいダービーでした。昔は"エクリプスが先着して、残りの馬はどこにも見当たらない"と言われていましたからね。決勝審判委員が気が動転して"大差だ!"と宣言しても、それほど驚かなかったでしょう。なぜなら真実は、"シャーガーが先着して、残りの馬はどこにも見当たらない"のですから」。

 シャーガーは長いあいだひとりぼっちだった。キングジョージが近づくある朝に放馬して、ヘンリー・セシルのウォレンプレイスの調教場で止まったときもそうだった。これは予想外の展開だったし、その後のセントレジャーS(ドンカスター)での4着が精いっぱいだった敗北もそうだった。

 スコットはこう言う。「あの日のシャーガーの肌には満足できませんでした。この馬についてはよく知っていましたが、毛づやが違っていました。もし彼が負けるとしたら、それはドンカスターだろうと思っていたのを思い出します」。

 シャーガーの競走生活は悲しい結末を迎えた。ただもっと悪いことが起ころうとしていた。しかし彼の崇高さは、童顔のジョッキーを背に最も名高いダービー優勝馬になった日として記憶されるべきである。

 何が彼をあれほどすごい馬にしたのかを最近になって聞かれたときに、スタウトは特徴のリストを長々と書いた。「まず、気性ですね。とても気立てがよく、素晴らしい振舞いをする馬でした。美しくて格好のよい四肢を持っていて、不具合が生じることはありませんでした。まさに均衡のとれた競走馬で、すぐに変速することができました。さらに愛らしい容姿さえも備えていました。シャーガーは完璧な競走馬だったのです」。

 彼のジョッキーも特別な存在だった。

 ウォーリー・スウィンバーンはこう語った。「ダービー直後、彼がウォリックの2歳戦で勝ったばかりのように見えたでしょうね。彼はダービーがどれほど重大なものかを分かっていましたが、調子に乗ることはありませんでした。かぎりなく自然体でした」。

 3日後には、歴史的な親子による二冠が達成される可能性もあった。スウィンバーンの父ウォーリーは、オークスでブルーウィンドに騎乗する予定だったが、ピゴットが彼女に乗ることになったのだ。騎乗を逃した男はそれをずっと後悔していただろう。しかしそれはただのレースであって、息子ではない。

 ウォーリー・スウィンバーンはこう言う。「ウォルターは、シャーガーのような馬には二度と乗れないことをはっきりと分かっていました。驚異的な馬が勝った驚異的なダービーでした。それに間違いはありませんね。40年前のことだなんて信じられません。時間はどこに吹っ飛んでしまったのでしょうか?ウォルターは今年60歳になるはずだったのに」。

 彼が19歳でシャーガーに乗って不朽の名声を手に入れようとしていたときに、父は彼にカトリック教会で奇跡のメダルと呼ばれているものを手渡した。それは彼の母からの贈り物で、エプソムでブラフ・スコットによるITVのインタビューのあいだに、ウォーリーによってウォルターに手渡された。

 「ウォルターは最後までそれを身につけていました」とドリーンは無理からぬことだが感極まる声で語った。

 40年前、永遠に若さを失わない完璧なコンビ、シャーガーとスウィンバーンは最高の日を分かち合った。

By Lee Mottershead

[Racing Post 2021年5月29日「'Now is the time to bet like men' - how Shergar made a lot of people very rich」]