海外競馬情報 2020年10月20日 - No.10 - 4
競走馬の海外遠征の舞台裏(国際)【その他】

 エネイブルは10月4日(日)、"競馬場での最後の晴れ姿"を見せるためにロンシャンの芝コースに出て、そのとき彼女のキャリアは最高潮に達するだろう。彼女は、これまで、M11(ロンドンとケンブリッジを結ぶ高速道路)を行き来し、M25(ロンドンの外環状高速道路)を回り、北に行くときはA1(M)(ロンドンからエディンバラまで延びる道路)、西に行くときはM4(ロンドンからブリストルまで東西に走る高速道路)を通うようなありふれた輸送も数多くこなしてきたが、海や大陸を渡るもっと複雑な輸送も経験してきた。

 エネイブルの最後のフランスへの遠征は、毎年夏のバカンスに出掛ける数千もの英国人にとっては造作ない道のりだ。南海岸に向かい、英仏海峡トンネルを通り抜ける電車に飛び乗り、向こう側に着いたら下車し、その後はパリまでの標識に従って進む。しかし、エネイブルなどの多くの優秀な競走馬にとっては、その遠征がいかによく組織され構成されているかが試される苦難の旅である。

 私たちは気楽な観戦者として、ブリーダーズカップ開催あるいはメルボルンカップ(G1)をテレビで視聴し、お気に入りの馬が現地の強豪馬に立ち向かうのを見て興奮する。そんなとき、それらの馬を大西洋を越えてアメリカの東海岸や西海岸、さらには地球の反対側へ遠征させるための段取りを忘れがちだ。それらの馬が経験すること、そのプロセスにおいて人間が経験させられること自体が試練である。

 エド・ダンロップ厩舎の遠征担当厩務員であるロビン・トレヴァー-ジョーンズ(Robin Trevor-Jones)氏は「スノーフェアリーは私に気を張らせつづけるためだけに、どこへ行こうと好んで問題を起こしたものです」と述べ、"アウェイ"でG1を5勝したような肝の据わった優良馬でさえも遠征時には頭痛の種をもたらしたことを認めた。

 「初めて日本に遠征したときのことです。飛行機に1時間乗ってアムステルダムに到着したときに、"ケンブリッジ空港に傾斜台を置いてきた"と聞かされました。彼女を飛行機から降ろせないということです。そのため、ストールを持ってきて、それを持ち上げて飛行機のドアにしっかりと突きつけ、彼女が歩けるようにマットを敷かなければなりませんでした。彼女はストールの中に歩いて入り、降りるときも引っ張る必要がなく自ら歩いて出てくれました。そして2勝することになるエリザベス女王杯(G1)の1勝目を挙げに行ったのです」。

 トレヴァー-ジョーンズ氏とスノーフェアリーにとって、心を苦しませる経験はそれだけにとどまらなかった。

 トレヴァー-ジョーンズ氏は1988年愛チャンピオンS(G1)にジェフ・ハファー(Geoff Huffer)厩舎のペルシアンハイツ(Persian Heights)をフェニックスパーク競馬場に連れて行ったときに初めての海外遠征を経験している。同氏はこう語った。「千葉県白井市の競馬学校国際厩舎のダート馬場で、スノーフェアリーは転倒して両前膝にひどい怪我を負いました。攻馬手のリンゼー・ハナ(Lyndsey Hannah)は歯が唇に刺さってしまい、病院に行かなければならなかったので、私は一人残されたまま、どうすれば良いのか、また日本の人々にどう説明すれば良いのか分かりませんでした」。

 「スノーフェアリーの肢からダートをできるだけ除去して、チュビグリップ(サポート包帯)を履かせたかったのですが、日本の人々は私が何を言っているのか理解できませんでした。そのため自分の靴下を脱いでつま先部分を切り取ってそれを履いたところ、やっと意思疎通ができました。その後彼女は1日たりとも跛行することなく、レースに出走して疾走しました」。

 おまけに、日本において初めてのG1・2勝外国調教馬となるというスノーフェアリーの次の挑戦も、異質の困難によって悩まされた。

 新たな惨劇はこう展開した。「彼女は嫌なハエの群れに刺され、後肢の間が腫れてしまいました。殺虫剤スプレーがその腫れを悪化させたのだと思います。それはとても厄介でした。なぜなら、彼女は跛行していて出走取消になるかもしれなかったからです」。

 「それでも、彼女を競馬学校から京都に急いで移動させたところ、抗炎症薬のおかげで跛行は1日で治り、元気を取り戻して再び走り、レースに出走して歴史的快挙を成し遂げました」。

 これらのエピソードは、たとえ遠征上手な馬でも、外国を訪れると数え切れないほどの困難にぶつかることを証明している。それにこのような困難が生じる前からも、海外遠征の調整担当者には潜り抜けなければならない輪がたくさんある。

 ラック・グリーヤー・ブラッドストック輸送会社(Luck Greayer Bloodstock Shipping Ltd)のルーシー・グリーヤー(Lucy Greayer)氏は「すべてが簡単そうに思われるかもしれません」と語った。同氏は過去に、マーク・ジョンストン厩舎とベン・ハンベリー(Ben Hanbury)厩舎でレーシングセクレタリーを務めていた。

 「ある調教師が"ロンシャンに馬を輸送したい"と電話してきたら、私たちは"了解しました"と答えます。一年の初めに、国際重賞を調べて、夏季全体のユーロトンネルシャトル(カートレインのシャトルサービス)を予約します。そして遠征を希望する全ての人々に対応するために、多数の予約を大きな表にまとめます」。

 「あるいは、航空会社に"飛行機を一機お願いしたい"と電話します。欧州には馬を輸送するためのチャーター機を運航している航空会社は、おそらくASL航空ベルギーなど2社あります。それらの会社に電話して、ファーンボロー空港(英国ハンプシャー州)からル・ブルジェ空港(フランス・パリ郊外)に行く飛行機1機の料金を聞きます。私たちはもらった見積もりを調教師に送り、その料金を遠征馬の頭数で等しく分けます」。

 いったいどんな悪いことが起こるのか、尋ねてみたくなるだろう。グリーヤー氏は問題をでっちあげるような人ではないが、遠征には乗り越えなければならない障害が山ほどあることを潔く認めている。

 「現在フランスに行く長距離バスやトレーラーがそれほど多くないため、ユーロトンネルシャトルにはシングルデッカーの車両(馬運車など車高の高い車を載せられる車両)が少なく、あまり利用できません。しかし、私たちはそれに対処してきました。いくぶん観光客が行っているようなことです。ユーロトンネルシャトルではフェリーとはちがって1つの場所が確保されます。移動時間は2時間半短縮されますが、依然としてフェリーで移動する調教師もいますし、遠征担当厩務員の間ではかなり抵抗がありました。なぜなら、彼らがフェリーでの移動を好んでいるのは朝食が取れるからです!」

 「馬は換気を必要とするので、貨物列車ではなく車両運搬列車(カートレイン)を利用しなければなりません。カートレインには1車両に1台の馬運車しか載せられませんが、小型の馬運車2台を載せても1車両で片道520ポンド(約7万円)なので、悪くはありません」。

 「念のために言っておきますが、フェリーは125ポンド(約1万7,000円)で利用できるので、あまり格の高くないリステッド競走のために遠征するのであれば、この選択肢もありかもしれません」。

 数々の選択肢があるようだ。調教師は予算・利用できる可能性・所要時間・習慣によってどの手段で移動するかを決定する。チャーリー・ヒルズ調教師は出発点から到着点までの移動時間が8時間かかる英仏海峡トンネルを使う移動を常に避けている。そのため、バターシュ(Battaash)をアベイドロンシャン賞(G1 ロンシャン)に出走させる際にはケンブリッジ空港からの短距離飛行を利用した。積み込み作業・荷卸し作業を別にすれば、移動時間はわずか3時間だった。グリーヤー氏は「移動の手段や所要時間に正解はありません。選択肢を提案して、選んでもらっています」と言った。

 遠い国へ遠征する際には選択肢はさらに広がる。香港・サウジアラビア・バーレーン・カタールなどの競馬統括機関は輸送費を負担して輸送業者を指定するが、ほかの競馬統括機関は輸送業者について"自由"である。しかしグリーヤー氏は、ブリーダーズカップ開催に参戦する欧州調教馬すべてのために飛行機をチャーターし、他のエージェントが自身を通じて予約してくるのを待つだろう。なお同氏は、新型コロナウイルス感染拡大と忌まわしきブレグジット(英国のEU離脱)により苦境に立たされていることを認めている。

 「私にとってブリーダーズカップ開催は、クイズ番組『マスターマインド』での得意ジャンルになるかもしれません。今年はケンタッキー州で開催されますので、飛行機のオプションをとても早くから検討し始めました。通常の年は1月か2月から始めます。欧州からシカゴのような場所に向かう飛行機を必要としていますが、週半ばに一便しか飛ばさない会社では話になりません。私は彼らに、その週末にロンドン・スタンスタッド空港から馬10頭を載せてケンタッキー州ルイビルに向かうことに関心はないか尋ね、その答えを待ちます」。

 「いつも円滑に輸送できることを望んでいますが、うまくいかないこともあります。昨年は航空会社が予定を変更し、当初の予定よりも24時間早く出発したかったようなのですが、フライトの4日前になるまでその情報を教えてくれませんでした。税関は、この新しいスケジュールでは私たちに対応できないし、ロサンゼルスに着陸するのは不可能だと言ってきました。またシザーリフトが壊れてしまい、馬を積み込めないという問題もありました。

 「このような事態はまったく制御不能ですが、何とか克服しようと努めています。ある年には、機内で14時間を過ごそうとしている10人への食事の提供がありませんでした。そのためウェイトローズ(スーパーマーケット)で大量のサンドイッチを買い込むためにバーチャンジャー(スタンスタッド空港の近くの村)のサービスエリアに猛ダッシュしました」。

 「それに15頭を積み込むのに3時間掛かることもあります。馬は歩いてきて自分の座席を見つけるわけではありません。それに厩務員の移動手段の面倒も見なければなりません。ニューマーケットのすべての調教場で厩務員をピックアップし、ヒースロー空港まで連れて行く"楽しいハッピーバス"を手配して、彼らが目的地に着いたときの出迎えあるいはレンタカーの手配を確かめなければなりません。舞台裏で非常に多くのことをしなければなりませんが、長年やっているのできつい仕事だとは思っていません。それに輸送を担当したうち2頭ほどが優勝してくれれば、素晴らしい遠征となります」。

 考えるべきことが山ほどあることだけははっきりしている。関係する作業は全て出費を伴い、馬主がそれを負担して、調教師がそれを心配する。今年は1頭につき約5万ポンド(約675万円)がかかる。ブリーダーズカップ主催者が馬主に4万ドル(約540万円)の輸送費補助を行ってくれるものの、飛行機のほとんどが待機させられていて、誰もルイビルに15頭つれて行くために飛行機を出してくれようとしない。

 ダンロップ調教師は、2001年にレイラニ(Lailani)でフラワーボウルS(G1ベルモント)を制したころから世界中への遠征を始めた。同調教師はこの11月に豪州遠征を計画しているが、その費用が新型コロナウイルス感染拡大のために膨れ上がっていることに身震いしている。

 「ヴィクトリア州が閉鎖されているので、豪州入りする際は厩舎スタッフをまずはシドニーに送らなければなりません。フライトがほとんどないので、彼らは確実に入国するためにビジネスクラスを利用します。ホテルで2週間の隔離期間を過ごした後、飛行機か車でメルボルンまで向かいます。馬が出発する前でさえも、あまり裕福ではない馬主がどれほどの費用を負担しなければならないか考えてみてください。桁外れな金額になりえます。そのような大金を出す余裕があるのは大富豪だけということがよくあります」。

 「馬主のロニー・アーカリ(Ronnie Arculli)氏は、レッドカドーが遠征して数百万ポンドを稼ぎだしたので非常に幸運でした。レッドカドーは専用のパレット(荷台)という"ファーストクラス"に乗り、輸送用の圧縮スーツを着込んでいました。しかし、レッドヴァードン(Red Verdon)は2回豪州に行きましたが、いずれも怪我と思慮深い決定のためにメルボルンカップに出走しませんでした。それでも遠征費用は20万ポンド(約2,700万円)に上りました」。

 調教場の事務所スタッフにとって、海外遠征とは"丹念な細部への気配りを要する兵站業務のチャレンジ"である。ニューマーケットのラグランジステーブルズ(La Grange Stables)でダンロップ厩舎のレーシングセクレタリーを務めるアンジェラ・ロウ(Angela Lowe)氏は、そのやり方を完全にマスターしている。

 ロウ氏はその仕事で求められる作業の多さを控えめに言うが、ベッキー・ダンロップ夫人は「アンジェラは信じられないほど几帳面でまめです。そのためロビンが持っていく荷物の中にはすべてが入っています。彼が必要とするもの全部と、すべての住所と電話番号です」と称賛した。

 ロウ氏はこう説明する。「他の国にくらべて準備がずっとラクな国があります。日本は系統立てているといつも思います。彼らは"やるべきことリスト"をくれますので、全部を覚える必要がなく、とてもやりやすいです」。

 「クリアランス通知(RCN)・検査・インフルエンザ予防接種・ビザを忘れてはなりません。現在、あらゆることが通常よりも複雑になっています。たとえば、アイルランドに遠征する際には、現地の人が馬を世話して出走させなければなりません。そのために少し制御が利かなくなりますが、それは前もって計画を立てておけば良いだけの話です」。

 トレヴァー-ジョーンズ氏はちょうど良いタイミングで、ロウ氏から説明書きが詰まった箱をもらうだろう。しかし彼はすでに、遠征に向かう馬の準備を整え始めている。たとえばスノーフェアリーが遠征する際には、彼女の56番馬房に輸送中の熱に慣れさせるための赤外線ランプを設置していた。

 トレヴァー-ジョーンズ氏はこう語った。「私は最初から今回の遠征に携わっていますが、今まさに準備をしているところです。ダンロップ厩舎を担当するマイク・シェパード(Mike Shepherd)獣医師が出発の5日前から対応に当たるでしょうが、それは馬だけではありません。出発の際にすべての餌を用意して、全てを梱包して準備しなければなりません。餌は向こうで検査されるので、馬よりも先に送り出すことがよくあります」。

 「幸運なことに、私たちの厩舎には餌を作れる豪州出身の人がいます。飼料会社はとても親切でレシピをくれました。私たちはそれを完全にコピーすることでき、遠征するどの国ででも彼が知る飼料工場を使って作ることができます。非常に助かります」。

「しかしその際に、水の問題があります。香港では常にペットボトルの水を使うようにアドバイスされているので、歯を磨くときでさえも水道水は使いません」。

 空港に着けば、馬が通常の長距離フライトで経験するよりもずっと快適な時間を過ごせるようにあらゆる措置が取られる。以前、馬は飛行機へのスロープを直接連れられて上がり、馬を囲むように上部が開いたストールが建てられた。グリーヤー氏はその飛行機はストレッチ型のDC-8だろうと言ったが、トレヴァー-ジョーンズ氏はヴィンセント・オブライエン調教師から借りた2頭用馬運車に羽根が生えたような飛行機や、以前英国人が欧州大陸に行く際に使った床の下が見える旧式のブリストル航空機を思い起こした。今では、馬は封印されたストールに入れられて777機か747機にシザーリフトで持ち上げられて入れられる。ストールには厩務員用の小部屋があり、飛行中の最大の悩みの1つを和らげるために、前面が取り外し可能となっている。

 トレヴァー-ジョーンズ氏はこう語った。「大きな問題は、馬は通常地面にある草を食むものなのに、機内では長時間にわたって頭を上げたままでいることです。そのため馬の鼻腔は乾き、粘液が肺に入って、馬を病原体に感染させます。そして発熱し、それと闘おうとするために白血球数を急増させます。人間は乗り物酔いを起こしますが、馬にも同じことが起こっているのです。馬の場合は死にいたる可能性もあります。しかし今では、ストールの前面を開いて餌を床に置くことができ、馬に頭を下げるように促すことができます。それはうまくいっているようです」。

 「経験から多くのことを学ぶことで、あらゆることが改善されています。それでも、遠征にうまく順応する馬がいる一方で、そうではない馬もいます。英国で出走するのにもストレスを感じているような馬がいるのなら、飛行機でも問題が生じるかもしれません。しかしそう言いながらも、ウィジャボードは馬運車を嫌っていましたが、飛行機ではまったく問題がありませんでした。なぜでしょうか?私には分かりません」。

 「彼女は心配な様子はなく飛行機の中で何時間も立っていました。目的地で彼女を降ろして、馬運車に乗せるとひどく興奮していました。ですが馬に水を飲ませ続けているとそのうち彼らは飼葉を食べだします。そうなれば"しめた"というものです」。

 馬が唯一の問題というわけではない。国ごとに異なる手続き、きわめて多様な検疫制限、そしてありとあらゆるお役所仕事により、ベテランの遠征担当厩務員からの絶望のうめき声が聞こえてきそうだ。しかしトレヴァー-ジョーンズ氏は年月を重ねるにつれて理性的なアプローチを獲得してきた。

 「障害はありません。ただルールが違うだけです。いつも"郷に入れば郷に従え"と言われてきました。何を期待されているかが分かれば、それをするまでです」。

 昨今世界はますます小さくなっているかもしれない。それでも依然として、馬と一緒に動きまわるためには、綿密な計画、積極的心構え、そして多くの現金が必要である。

By Peter Thomas
(1ポンド=約135円)

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