ミルリーフを手掛けたイアン・ボールディング調教師が87歳で死去(イギリス)【その他】
彼より数多くの勝利を重ねた調教師でさえ、やがて忘れられていく。それでもイアン・ボールディング調教師は、名門競馬一家の一員としてミルリーフという規格外の名馬を手掛けた功績により、これからも長く人々の記憶に残っていくだろう。
87歳で逝去したボールディング師は、2,000近くのレースを制し、非常に成功した調教師であった。しかし、そればかりではないのだ。
イアン・ボールディング師はトビーの弟、クレアとアンドリューの父親、さらにハンティンドン卿の義弟であり、競馬界屈指の名門一家の中核をなす存在でもあった。
そして、競馬というスポーツが続く限り、ミルリーフを育て上げた男という事実だけで、競馬史に名が刻まれることは約束される。
ボールディング師は、自身の代名詞とも言えるミルリーフと同様に、アメリカで生まれ、若くして英国の地を踏んだ。渡英後は英国競馬界に多大な影響を与えることとなった。
1938年にアメリカのニュージャージー州で生を受けた。父のジェラルドはロングアイランドにあるジョン・ヘイ・"ジョック"・ホイットニー氏(訳注:アメリカの実業家・馬主)が所有する「グリーンツリー」でプレーするポロ選手だった。幼少期は、トビーの愛称で知られる兄のジェラルドとともにアメリカで過ごした。
第二次大戦後、父が英国ハンプシャー州ウェイヒルで調教師になるため、一家は大西洋を渡って父の故郷へと向かった。のちに在英アメリカ大使となるホイットニー氏がウェイヒルに厩舎を買い与えたのだ。若き日のボールディング師はマールボロ・カレッジやミルフィールド・スクールで学んだ。ミルフィールド・スクールで現在、年に一度行われるポロの招待試合は、イアン・ボールディング杯として知られている。
その後、ケンブリッジ大学のクライスツ・カレッジに進学したが、ラグビーの腕前だけで合格したようなものだと冗談をよく飛ばしていた。「面接のときに主任教授が突然、本を投げてきたんだ。ツイていたんだよ。優秀なフルバックなら当然のようにうまくキャッチできてさ!」と振り返った。
父のジェラルドが癌で亡くなり、1957年から兄のトビーが厩舎を引き継ぐことになった。そこから47年に及ぶキャリアで、英グランドナショナル(G3)、チェルトナム・ゴールドカップ(G1)、チャンピオンハードル(G1)を含め通算2,000勝を打ち立てた。
弟のイアンも兄と同様に突然、調教師としてのキャリアをスタートさせることになった。アマチュア騎手としての通算65勝のうち、チェルトナムフェスティバルのナショナルハントチェイスでタイムに騎乗して最も大きな勝ち星を挙げた一年後のことだった。
1964年3月には、ニューベリー近郊のキングスクレアを拠点にしていたピーター・ヘイスティングス-バス調教師から助力を請われた。同師は病に伏せており、同年の6月に帰らぬ人となると、アシスタントを務めていたイアンにその後が託された。さらにそこから5年後には、娘のエマ・ヘイスティングス-バスと結婚した。
ボールディング師の交友関係は大変広く、調教経験が浅いにもかかわらず、当時のエジンバラ公が厩舎を引き継ぐように説得したとされている。
とはいえ、説得はそこまで難しいものではなかっただろう。調教師として一歩を踏み出すのにキングスクレアほど適した厩舎は他にないからだ。19世紀後半にあのジョン・ポーター調教師が23頭ものクラシック馬を輩出した厩舎には、当時もポール・メロン氏をはじめとしたアメリカの富豪が所有する有力馬が数多く預託されていた。
慈善家や美術品収集家として知られていた大富豪のメロン氏は、馬に並々ならぬ情熱を注いでいた。1969年には、アメリカで自家生産したネヴァーベンド産駒の牡馬を新米調教師の元に送ることにした。このメロン氏の決断がボールディング師の人生を大きく変えることになるのだ。
ミルリーフは英国競馬史上、稀代の名馬に育った。2歳時から第一線で活躍し、3歳時には英ダービー(G1)、エクリプスS(G1)、キングジョージ6世&クイーンエリザベスS(G1)、凱旋門賞(G1)を次々と制覇し、1972年に故障で引退するまでにG1競走を6勝した。
ボールディング師は1971年にはリーディングトレーナーに輝いている。同年のダービー当日、競馬場に向かう途中で渋滞に巻き込まれ、その第1レースの装鞍に間に合うよう、シルクハットとモーニングという出で立ちで2マイル(3,200m)もの距離を激走する羽目になったことを考えれば、もっともなご褒美だった。
メロン氏は、ボールディング家の子供2人の教育費用を賄うべく、信託財産を創設してまで、感謝を示すほどであった。
もちろん、ミルリーフはスターホースに違いなかったが、ボールディング師が調教し、あの有名な「黒にゴールドのクロスとカフス、黒帽に金一本縞」の服色・帽色で大レースを制した優秀な馬はほかにもいた。
グリントオブゴールドはG1競走で6勝を挙げ、ダイヤモンドショールやゴールドアンドアイボリーも中距離戦線でトップクラスの牡馬として活躍した。しかし、フォレストフラワーほどファンの心をとらえてやまなかった牝馬はいない。
フォレストフラワーは非常に小柄だったが、1986年の最優秀2歳牝馬に輝いた。その後の成長力を危ぶむ声をよそに、翌年の愛1,000ギニー(G1)では、勝負根性を発揮した激走でファンを魅了し、疑念を鮮やかに払拭してみせたのだった。
ジョージ・ストローブリッジ氏は、ボールディング師がともに成功を収めたもう一人のアメリカ人馬主だ。なかでも、名スプリンターのシルヴァーフリングやトップマイラーだったセルカークの活躍は目覚ましいものだった。
ボールディング師がキングスクレアの厩舎を継承した際、女王陛下はすでに所有馬を預託しており、同師が引退する2002年までその関係は続いた。陛下と同師の関係は、マーガレット・サッチャー氏が初当選して首相となった日の朝に交わされた電話での会話を経ても、損なわれることはなかった。
四半世紀以上国家元首として、また英連邦の元首として在位していた女王陛下から、そのニュースについて問われたボールディング師は「女性が国を治めるなんて、考えてみると驚きですね」と答えてしまった。
同師は1974年、女王陛下の勝負服を背負ったエスコリアルで、ヨーク競馬場のミュージドラS(G3)を制した。このヨーク競馬場は王室にとっても忘れがたい勝利の舞台となった。1988年に創設されたばかりの女性アマチュア騎手限定のクイーンマザーCでボールディング師が管理するインスラーが制し、鞍上は陛下の娘アン王女だったのだ。
1990年代のキングスクレアの絶対的なスターと言えば、ジェフ・スミス氏所有のスプリンター、ロックソングだ。同馬は1993年のカルティエ賞の年度代表馬に選出されている。
ロックソングが1992年のエアーゴールドCで勝利した際に手綱を取ったのは7ポンド(約3キロ)の減量があったフランシス・アロースミス騎手だった。ボールディング師はメロン氏からの勧めもあり、経験の浅い若手騎手の支援に積極的な調教師として知られていた。
ともにリーディング見習い騎手となったアーニー・ジョンソン騎手やフィリップ・ウォルドロン騎手をはじめとして、ジョン・マティアス騎手やマーティン・ドワイヤー騎手など、いわば「キングスクレア養成所」をボールディング師が率いた時期に数多くのトップジョッキーが輩出された。
この伝統はボールディング師の引退後も脈々と受け継がれており、オイシン・マーフィー騎手、ウィリアム・ビュイック騎手、(ビュイック騎手とともにリーディングを分け合った)デビッド・プロバート騎手が見習い騎手チャンピオンのタイトルを獲得した。
アンドリュー・ボールディング調教師は、父から厩舎を継承したのちに多くのG1競走を制している。なかでも免許取得初年度の英オークス(G1)で管理馬のカジュアルルックが挙げた勝利ほど感慨深いものはないだろう。
エプソム競馬場のウイナーズサークルで父と息子がそろって、娘のクレアから生放送のテレビインタビューのマイクを向けられた次の瞬間、3人とも感極まって言葉を詰まらせた。生放送で数秒間、静寂が流れたのだった。
もっとも生放送で沈黙するのはクレア・ボールディングらしくなかった。クレアはアマチュア騎手として父の管理馬に騎乗して勝利を収め、のちにBBCやチャンネル4の競馬放送の顔として有名になった。現在では、オリンピック中継や「BBCスポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー」(訳注:BBCが主催する当該年に活躍したアスリートの年間表彰)の司会者としても活躍している。
イアン・ボールディング師はかつて「自分は障害騎手としてのキャリアに未練がある」と打ち明けたことがある。1985年に46歳で所有馬のロスポルダークとタッグを組み、グランドナショナルと同じコースで実施されるフォックスハンターズチェイスにアマチュア騎手として出走した。
同師は70代になっても騎乗を止めなかったが、2016年に落馬した際には肋骨を14本も折り、肺に穴が空く重傷を負った。
遺族は妻のエマ、娘のクレア、息子のアンドリュー。兄のトビー・ボールディング氏は2014年に逝去している。
By David Carr

























