殿堂入りのルーカス調教師が健康上の理由で引退(アメリカ)【その他】
(訳注:ルーカス調教師は6月28日に逝去されました。)
米国競馬史上でも指折りの勝利数を誇り、競馬界に多大な影響力を持つウェイン・ルーカス調教師が、ケンタッキー州ルイビルの医療施設に入院した。殿堂入りを果たしている同師が現場復帰する見込みはないと家族が明らかにした。
家族によると、89歳のルーカス師は重度の感染症を患っており容態が悪化しているという。同師は積極的な治療を望んでおらず、近いうちに自宅に戻って、妻のローリー、孫のブレイディ・ルーカスとケリー・ロイ、ひ孫のジョニー・ロイ、トーマス・ロイ、ウォーカー・ルーカス、クイン・ルーカスとともに残りの時間を過ごす予定だ。
このような辛い状況にあるため、家族は静かに見守ってほしいとしている。
ルーカス・エンタープライズ社が円滑な事業継承を進めるために準備した綿密な計画に基づき、これまでルーカス師が管理していた馬は、彼の助手を務めるベテランのセバスチャン・ニコル氏に引き継がれた。
1999年に殿堂入りしたルーカス師は、ケンタッキーダービー(G1)を4回、ケンタッキーオークス(G1)を5回制覇している。年度代表馬に輝いた3頭を含め、エクリプス賞受賞馬を26頭育て上げた。
「ウェインはサラブレッド競馬史でも特に偉大な勝負師であり、最も重要な人物の一人です」とチャーチルダウンズ競馬場のマイク・アンダーソン理事長は語った。「競馬というスポーツの枠を超えて、この業界を新たな高みに導いてくれました。ウェインの人柄と知性は長きにわたり競馬界に多大な影響を与えており、あの熟練のホースマンシップから唯一無二の細部へのこだわりまで、今後もう見ることができないかと思うと寂しいです。このニュースの衝撃は計り知れません。つらい思いをされているウェインのご家族や世界中にいるご友人に祈りを捧げます」。
ルーカス師は60年にも及ぶキャリアを通じて、サラブレッド競走で4,967勝を積み上げた。管理馬の出走は30,607回にも及び3億1,000万ドル(約450億円)以上の賞金を獲得した。4,967勝のうち1,105勝はステークス競走での勝利であり、さらにそのうちの637勝は重賞で挙げた勝ち星だった。
ルーカス師最後の勝利は、6月12日にチャーチルダウンズ競馬場の7ハロン(約1,400m)で行われたアローワンス競走に出走したツアープレイヤー(Tour Player・牡4歳)が飾ったものだった。同馬は、近しい友人で、同じく殿堂入りを果たしているボブ・バファート調教師が、ルーカス師のもとに移籍させた馬だ。バファート師の妻ジルが所有するアメリカンファラオ(American Pharoah)産駒である。
管理馬を引き継ぐイギリス出身のニコル氏はイギリス陸軍に8年間在籍し、大尉まで上り詰めた。1990年代初頭の第一次湾岸戦争中に実行された「砂漠の嵐作戦」では戦車隊長を務めた。1995年に陸軍を退役し、アイルランドで障害馬の管理で著名なエドワード・オグレディ調教師のもとで働くようになった。1999年にパット・バーン調教師のもとで働くために渡米し、その後、2002年1月18日にルーカス厩舎に加わった。
「ウェインは、誰もなしえない伝説を築き上げました」とニコル氏は語った。「何かしらの決断を下すたび、馬を出走させるたびに、心の中でウェインの声が響くでしょう。自分がウェインの代わりを務めるということではありません。それは誰にもできません。ウェインが築き上げたもの全てに対して敬意を払うということなのです」。
ルーカス師の管理馬は三冠レースで15勝を挙げており、これはバファート師の17勝に次ぐ記録である。ブリーダーズカップでは最多勝利記録タイの20勝を挙げている。さらに同師は4回も全米最優秀調教師としてエクリプス賞を受賞し、14回(1983年~1992年および1994年~1997年)も最多賞金獲得調教師として名を連ねている。
ルーカス師は1989年からチャーチルダウンズ競馬場に厩舎を構えている。同競馬場の6ハロン棒付近にある出入口(ギャップ)は、同師の44号厩舎に近いところにあるため「ルーカスギャップ」と呼ばれている。2015年、チャーチルダウンズ競馬場は、同競馬場、ケンタッキーダービー、ケンタッキーオークスおよび競馬界全体にルーカス師がもたらした功績、貢献、影響力を称えるため、「ホームカミングクラシック」を「ルーカスクラシック」に改名した。それ以降、4歳以上の馬を対象とする1 1/8マイル(約1,800m)の同競走は、賞金17万5,000ドル(約2,538万円)のリステッド競走から、ブリーダーズカップクラシック(G1)の5週間前に開催される賞金50万ドル(約7,250万円)の主要なG2レースになった。
本名ダレル・ウェイン・ルーカスは3人きょうだいの2番目の子として1935年9月2日に生まれた。出身地であるウィスコンシン州アンティゴ郡郊外の小さな農村にある10エーカーほどの牧場で育った。若いころは、アンティゴ郡のイベント会場でポニー競馬に出ていた。高校入学前には馬を評価して、購買するための技能を習得し始めていた。
大学に進学し、教育学の修士号をウィスコンシン大学で取得した。同大ではのちに2年間、バスケットボールのアシスタントコーチを務めている。その後、高校で教鞭をとりながら9年間、バスケットボールのヘッドコーチとして働いた。そのうち7年間はウィスコンシン州ラクロスにも赴き指導していた。こうした立派な経歴から、のちに競馬関係者から敬意を込めて「コーチ」と呼ばれるようになった。
ルーカス師は、1968年の夏にサウスダコタ州のジェファーソンパーク競馬場でクォーターホースの調教師業を始めて、のちに専業とした。1972年には拠点をカリフォルニアに移し、すぐにクォーターホースの調教師としてトップの地位を確立して年間平均100万ドル(約1億4,500万円)以上の賞金を獲得した。2007年にはアメリカン・クォーターホース協会の殿堂(American Quarter Horse Hall of Fame)入りを果たし、クォーターホース競馬とサラブレッド競馬の両方で顕彰された初の人物になった。
1978年、同師はサラブレッドを7頭預かり、サラブレッドの調教師として専業での活動を開始した。南カリフォルニアのサンタアニタパーク競馬場に移ると、白い柵や花壇を設け、装飾用に新たに塗装した飼葉桶を並べるなどして、自身の厩舎を美しく整えた。これがキャリアを通じてルーカス厩舎のトレードマークとなった。
ルーカス師は1970年代後半から1980年代にかけて、サラブレッドの調教に新風を吹き込んだ。優秀な助手を雇い、全米各地で馬を調教するようになったのだ。各地に設けたサテライト厩舎から、トップホースを全米の主要なステークス競走に飛行機で送り込んだことから、競馬場では「D・ウェインが飛行機でやってくる」という言葉が流行した。
同師の「調教師の系譜」には、ボビー・バーネット、ランディ・ブラッドショー、マーク・ヘニング、マイク・メーカー、キアラン・マクローリン、トッド・プレッチャー、ダラス・スチュワート、ジョージ・ウィーバーといった元助手たちが名を連ねているが、これはほんの一部にすぎない。
ルーカス師が最も信頼していた助手は、今は亡き一人息子ジェフだった。1993年12月、ジェフはサンタアニタパーク競馬場で朝の調教中に起きた事故によって重症を負った。早くから頭角を現していた2歳馬タバスコキャット(Tabasco Cat)が厩務員を振り切って放馬した。36歳のジェフは暴走する馬の前に立ちはだかって止めようとしたが、馬はそのまま彼に激突した。ジェフは頭蓋骨を骨折して数週間もの間昏睡状態となり、脳に回復不能な損傷を負った。ジェフは果敢に治療に取り組み、1994年6月にはついにパートタイムで仕事に復帰できるほどにまで回復したが、それも長くは続かなかった。オクラホマ州アトカ郡にある小さな町に移り住んだジェフ・ルーカスは、2016年3月24日に58歳で亡くなった。
鋭い観察眼で知られ、派手で自信家、そしておしゃれだと評されることの多かったルーカス師は、1歳馬のセールで何百万ドルも投じる裕福な馬主を積極的に集めた。初期の主要な顧客の一人に、サンディエゴ・チャージャーズ(アメリカンフットボールのプロチーム)の元オーナー、ユージン・クライン氏がいる。1986年に同氏が57万5,000ドル(約8,338万円)で購入した牝馬、ウイニングカラーズ(Winning Colors)は、ルーカス師にとって初のケンタッキーダービー馬となった。
このほか、同師が手がけたケンタッキーダービー馬には、1995年のサンダーガルチ(Thunder Gulch)、1996年のグラインドストーン(Grindstone)、1999年のカリズマティック(Charismatic)の3頭がいる。ルーカス師が手がけた最後のクラシック勝ち馬は昨年のプリークネスS(G1)を制したシーズザグレイ(Seize The Grey)だった。
全米ホースメン共済協会(National Horsemen's Benevolent and Protective Association:NHBPA)CEOのエリック・ハメルバック氏は以下のコメントを発表した。
「殿堂入りしているウェイン・ルーカス調教師の病状に関するニュースが明るみになってから、私たちNHBPAの加盟団体は、競馬界とともに心から祈りをささげています」
「ウェイン・ルーカスはサラブレッド競馬界の伝説であるだけではなく、何世代にもわたってこのスポーツに影響を与えてきた象徴的な存在です。エクリプス賞を何度も受賞し、クラシックレースを数えきれないほど勝利するという無類の功績を挙げ、ほんの一握りの人にしか辿り着くことのできない境地に達したのです。ウェインは競馬場で勝ち星を挙げることにとどまらず、たくさんの競馬関係者を指導して、競馬界の根幹を築くことにも貢献しました」
「コーチに特に感謝していることの一つに、2022年、オークローンパーク競馬場で開催されたNHBPAの総会で、基調講演を快く引き受けてくれたことがあります。ウェインは、出席者全員に向けて自分の知恵、洞察、スポーツに対する情熱を惜しみなく語ってくれました。あの日の講演では、その場にいた参加者が鼓舞されて、ウェインの成功した秘訣に改めて気づくことができました。それは揺るがない価値観、たゆまぬ努力、誠実さ、理念に加えて、さらに努力を重ねることでした。素晴らしいキャリアの礎になったウェインの強さと意志が、私たちみなを鼓舞し続けるのです」
「NHBPAと全米のホースマンを代表して、大変な状況にあるウェインとご家族に心からのお見舞いを申し上げます」。
By Churchill Downs
1米ドル=約145円
[bloodhorse.com 2025年6月22日「Medical Issues Force Lukas to End Training Career」]