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2014年11月20日  - No.11 - 4

第1回ドバイワールドカップ優勝馬シガー、24歳で死亡(アメリカ)【その他】


 “不屈、無敵、無敗のシガー(Cigar)”は、セクレタリアト(Secretariat)以来の米国最強馬と言って良い。この第1回ドバイワールドカップ優勝馬は24歳で死亡した。

 米国の報道によれば、世界最高レーティング馬および米国年度代表馬にそれぞれ2度輝いたシガーは、レキシントンで頸の変形性関節症の手術を受け、10月7日に死亡した。同馬は1999年に種馬場で生殖能力がないことが判明して以来、レキシントンにあるケンタッキーホースパーク(Kentucky Horse Park)のチャンピオンの殿堂(Hall of Champions)に繋養されていた。

 NTRA(全米サラブレッド競馬協会)の理事長兼CEOアレックス・ウォルドロップ(Alex Waldrop)氏は10月8日夜、次のように語った。「シガーは過去四半世紀のサラブレッドの偉大さを示す象徴であり続けるでしょう」。

 「シガーはボストンからロサンゼルスまで大観衆を集め、その絶大な力で無数の新しいファンを魅了しました。三冠馬が出現した1970年代以来、このような傑出馬を目にしたことはありませんでした」。

 航空業界の大物だった故アレン・ポールソン(Allen Paulson)氏が生産し所有したシガーはパレスミュージック(Palace Music)産駒で、たばこ製品ではなく航空関係用語にちなみ名付けられた。同馬はアレックス・ハッシンジャー(Alex Hassinger)調教師のもとで目立たない芝馬のキャリアを歩んでいたが、4歳でニューヨークを拠点とするビル・モット(Bill Mott)調教師の厩舎に転厩してダート路線に転向し名声を得た。主戦騎手はジェリー・ベイリー(Jerry Baily)騎手が務めた。

 シガーは1994年10月〜1996年7月に、1950年の三冠馬サイテーション(Citation)以来初めて16連勝を果たし、伝説を築いた。

 その勝利には多くのG1優勝が含まれ、とりわけ土つかずの10戦10勝を果たした1995年には、ピムリコスペシャル(1995年当時G1、現G3)、ハリウッドゴールドカップ(G1、 現ゴールドカップサンタアニタS)、ウッドワードH(G1)およびジョッキークラブゴールドカップ(G1)を制した。そして、ベルモントパーク競馬場でルキャリエール(L’Carriere)を破り、トム・ダーキン(Tom Durkin)氏の有名な「不屈、無敵、無敗のシガー」という名実況が飛び出したBCクラシック(G1)優勝は記憶に残るものである。

 1995年に1シーズンあたりの最高獲得賞金の記録を打ち立て、その翌年ガルフストリームパーク競馬場のドンH(G1)優勝後、関係者はシガーを400万ドル(約4億4,000万円)の世界最高賞金額を掲げる第1回ドバイワールドカップに挑戦させるため砂漠に送り込んだ。裂蹄のために調教中断が余儀なくされたにもかかわらず、同馬は終盤の劇的な攻防戦でソウルオブザマター(Soul Of The Matter)を半馬身差で撃退した。

 帰国後さらに2勝したが、デルマー競馬場の1996年パシフィッククラシック(G1)で敗戦を喫し、連勝は終わった。シガーはその年のBCクラシックで3着となった後に引退することとなり、引退セレモニーはマジソンスクエアガーデンで行われた。獲得賞金額は9,999,813ドル(約11億円)で、過去20年間の米国競馬界での最高記録であったが、その後、その記録は唯一カーリン(Curlin)に破られることになる。

 シガーはレーシングポストレーティング(Racing Post Rating: RPR)で135を獲得し、これはゴーストザッパー(Ghostzapper)と並び米国調教馬に付けられた史上最高レーティングである。また、米国最高の栄誉である米国年度代表馬に選出された1995年と1996年に、インターナショナル・クラシフィケーション(現ワールドサラブレッドランキング)でもトップに君臨した。通算成績33戦19勝のうちG1は11勝で、2002年には競馬殿堂入りを果たす。
 

数字で見るシガーの経歴

獲得賞金:999万9000ドル(過去20年で最高)

連勝記録(1994年10月〜1996年7月):16(サイテーションとタイ)

ブラッドホース誌の20世紀トップ米国馬ランキング:18

無敗の1995年の成績:10戦10勝

RPR:135(米国馬最高レーティング、ゴーストザッパーとタイ)

ワールドサラブレッドランキング最高位:2回(1995年、1996年)

米国年度代表馬選出:2回(1995年、1996年)

 


第1回ドバイワールドカップはシガーのキャリアで最も魅惑的な出来事

 1996年3月の第1回ドバイワールドカップを現地で観戦する幸運に恵まれた人は誰でも、そのセンセーショナルな体験を忘れることはできないだろう。それまで見たことのないような贅沢な競馬開催日であったのは確かだが、馬なしではモハメド殿下(Sheikh Mohammed)の夢を現実にすることはできなかっただろう。

 このイベント全体を金満家のばかげた俗悪趣味として片づけたがる人々は少なくなかった。しかしシガーの登場は、ドバイワールドカップとドバイ競馬全体を一挙に世に知らしめた。照明下のナドアルシバ競馬場での記憶に残る夜に、シガーはジェリー・ベイリー騎手を背に最もスリリングなレースを制して高い前評判に応えた。勇気と粘り強さがシガーに力を与え、ソウルオブザマターに負かされることはなかった。この驚くべき夜は、数々の記録を打ち立てたスーパースターであるシガーの輝かしい経歴において最も魅惑的な出来事であった。

 “不屈、無敵、無敗のシガー”としての伝説を築く道をすでに歩んでいた同馬は、外国に遠征し、逆境に打ち勝ち、そして勝利を手に入れたその時“アメリカの馬”となった。そしてその有能な調教師ビル・モット氏ほど同馬に畏敬の念を抱いている者はいない。筆者は2年前に本紙のレーシングレジェンドシリーズの取材のために同調教師と3時間一緒に過ごしたことがある。

 シガーの偉業の大きさについて聞いたところ、いつも思慮深いモット調教師は9〜10秒ほど黙りこみ、「彼は素晴らしい馬でした」と目を潤ませ、次のように語った。「勝ち始めて存在感を発揮する馬でした。6連勝などという快挙を成し遂げた時に、私は助手に『必要なことは腰を据えてしっかり良く見ることだ。今起こっていることは本当に特別なことなんだから』と言いました」。

 「このようなことを体験することは、今後長い間ないだろうと言いました。今までとは全く違うことなので、私たちはその素晴らしさを十分理解するよう学んだ方がいいと思いました。本当に息をのむようなことでした。このチャンスを手に入れることができたのは、まさに一生に一度のことです。自分がシガーのような馬を管理することになるとは想像もしていなかったことです」。

By Nicholas Godfrey
(1ドル=約110円)

[Racing Post 2014年10月9日「Death of Cigar」]


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