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2012年12月20日  - No.12 - 6

騎手が引退後に経験する空虚感(イギリス)【その他】


 あなたが過ごしてきた唯一の生活が失われ、なお半分以上の職業人生が残されたままスクラップ置場に押しやられたと思えるように大きな空虚感と不確かな将来に直面した状況を想像してみて下さい。引退に対処することを非常に困難と感じる騎手がいるということは驚きだろうか?

 引退時期を選択することができる幸運な騎手でさえ、引退するときには、当然起きる金銭上の問題とともに大きな感情的および精神的な問題に直面する可能性がある。それは、毎日のレース騎乗での興奮や検量室での仲間意識が失われてしまったという感情である。

 ここ数週間、マイケル・ヒルズ(Michael Hills)元騎手は、レースで勝った時の熱狂がいかに恋しいかについて語り、一方、スティーブ・ドロウン(Steve Drowne)騎手は1月の復帰を予定しているものの、騎乗収入なしの長い休業期間によって生ずる金銭上の問題を思い知らされたことを認めた。

 引退は考えている以上に早くやって来る。騎手雇用・訓練計画(Jockeys Employment and Training Scheme: JETS)がまとめた調査によれば、騎手の平均引退年齢は平地競走では33歳であり、障害競走ではそれより3年早い。

 リチャード・ダンウッディー(Richard Dunwoody)氏は、首の怪我で騎手人生を終えたあと、想像を超える努力によってある程度回復し、競馬界で語り継がれる伝説となったが、騎手引退後の生活の虚しさと格闘するのは、チャンピオンに数回輝いたこの騎手ばかりではない。

 それは、英ダービー、凱旋門賞およびキングジョージをはじめG1で50勝近くを挙げ、2001年9月に引退したジョン・リード(John Reid)氏の話を聞けば分かることである。現在57歳のリード氏は、「引退後の4〜5年間は非常に危険な時期となり得ると考えています。これはすべてのスポーツ選手について同じだと思います。もはや役立たずだと言われても、実際にそのとおりなのです。これは傷つく言葉です」と語る。

 医学雑誌のザ・ランセット誌(The Lancet)によれば、エリートスポーツ選手はスポーツ環境において突きつけられる肉体的および精神的要求のため、一般の人々よりもうつ病に罹りやすいと医学的研究は示している。騎手たちにとって最も傷つきやすい時期は、引退を決意するとき、あるいはもっと悪いケースとしては多分深刻な怪我により引退の決断を迫られるときにやって来る可能性が高い。

 幸いにも競馬界は、JETS、負傷騎手基金(Injured Jockeys Fund: IJF)および騎手協会(Professional Jockeys Association: PJA)による素晴らしい支援メカニズムに恵まれている。しかし、いつも恵まれていると言えるわけではなく、リード氏はチャンピオン騎手に5度輝き1989年に自ら命を絶ったダグ・スミス(Doug Smith)氏の例を挙げた。そして、「彼は上手く対処することができずに自ら命を絶ちました」と述べ、チャンピオン見習い騎手となりクラシック競走を2度優勝したスミス元騎手の死が自殺とは記録されなかったことやリード氏の表現によれば“飲んだくれて亡くなった”ことについても述べた。

 リード氏は、「多くの騎手はおそらく一種のうつ状態に陥ると考えているので、なぜこのようなことが起きたのか今では理解できます。生活のためにいつも完全燃焼していた世界から離れれば、禁断症状が生じます。またアイデンティティーも若干失います。もはや騎手ではなく元騎手であり、また未知の人物ではなく得体のしれない人物とされてしまうのです」と語った。

 そして、「どのようなレベルの騎手であれ騎乗を辞めると、職業人生が皆泡と化し、必ずその種の兆候が出ます。それをすぐに乗り越える元騎手もいれば、しばらく時間の掛かる騎手もいます。とうとう乗り越えることのできなかった騎手も何人か知っています」と続けた。

 クライヴ・コックス(Clive Cox)調教師の馬に調教騎乗しているリード氏は、騎手のコーチも務めており、定期的に競馬場での業務もこなしている。

 同氏は、「正直なところ、私自身も引退による影響を受けなかったとは言いません。これは容易なことではなく、私もうまく対処したふりはしません。完全にうまく対処できる騎手などいません」と付言した。

 3年前に引退したデール・ギブソン(Dale Gibson)氏は現在、PJAの渉外担当責任者を務めている。

 同氏は、「騎手でいることは仕事であるとともに生き方すべてです。騎手は競馬以外のことは全く分かっておらず、騎乗生活において競馬以外のための時間はなく、検量室での仲間意識は非常に強いものです」と語った。

 そして次のように続けた。「ゲートが開いた瞬間に情け容赦ない戦いとなることは確かですが、騎手社会は結束の強い共同体です。したがって、それが終わるときに向けては心の準備をしなければなりません」。

 「騎手であることで多くの個人的犠牲を払っています。それは常に体重を気にしないといけないことや、土日勤務で、多くの機会を逃し、家族や友だちをおろそかにすることになるので、よく気を配っていなければ、引退したときに実際問題が生ずることになります。かなりの精神力が必要であり、新しい生活への移行には時間が掛かります」。

 PJAのCEOポール・ストラザース(Paul Struthers)氏は、引退に伴う痛手があり得ることを十分に認識している。同氏は、「騎手をやめることは、時に非常に困難を伴います。それはうつ病に繋がることもあり、24時間の電話相談サービスを設置している競馬福祉協会(Racing Welfare)と連携を強める努力をしています」と語った。

 そして、「騎手たちはこの機関を利用することができ、実際に利用していますが、競馬界に対してより充実したサービスを確保することが私たちの長期的な願いです」と付け足した。

 騎手が直面している特定の問題について、一流スポーツ心理学者マイケル・コーフィールド(Michael Caufield)氏ほど真剣に考慮している人はいない。以前PJAのCEOを務めた同氏は現在、スポーツ界およびビジネス界のエリートチームと一緒に取り組むコンサルタント会社のスポーティングエッジ社(Sporting Edge)に所属している。同氏は今月エッジバストンで、クリケット選手の転職についてプレゼンを行った。

 同氏は、「スポーツ選手として直面してきたすべての事柄の中で、引退は、本人がうまく順応できない場合には最も厄介な問題です。クリケット選手、サッカー選手あるいは騎手であろうと、これは非常に困難なことです。これが人生の大きな変化であることが最大の問題ですが、もしそれを予め考慮していれば、よりうまく対処でき、この変化を管理することができます」。

 コーフィールド氏は、いきなり現実に戻らなければならない英国人メダリストの精神のもつれについて、オリンピックの元ボート選手のジェームズ・クラックネル(James Cracknell)氏が分析した最近のラジオ5ライブ(Radio 5 Live)のドキュメンタリーを挙げた。

 コーフィールド氏は、「彼らはたぶん25歳ぐらいでキャリアの頂点を迎えます。その称賛を再び得ることはなく、これは騎手にとっても同じです。彼らは永遠にその状態を維持したいでしょうが、それは無理なのです」と語った。

 コーフィールド氏は、そのような大きな変化であっても対処はできると主張する。「私が使うことを控えている言葉は“引退”です。それは、祖父母が犬を海辺へ散歩に連れて行くような生活を表す言葉です。スポーツ選手の場合は引退ではなく、職業人生の2番目のサイクルなのです。何億兆ポンドも稼いでいたとしても、誰も34歳で“引退”はしません」。

 そして“心理の変化”について次のように語った。「自己否定から、抵抗、受け入れ、希望、計画へと移行します。その後、それをコントロールできるようになります。もはや騎乗は出来ないとか、もはやサッカープレーはできないとか言われたとき、もちろんそれはそれで大きな問題ですが、もし自己否定から抜けられないとすれば、それこそ一大事となります。それは状況としては最悪であり、怒りや苦痛が募りますが、パブで“私は大した選手だったんだ”と思うことでそのような憂鬱な気持ちを終わらせることができるかもしれません」。

 「これは簡単なことだとは言いませんが、自分の2番目の人生が始まったということを受け入れなければなりません。騎手は、自分たちがより広い世界で価値のある多くの技術を持っていることを知る必要があります。彼らは熱心に取り組み、よく訓練されていて、意思疎通を図ることができ、逆境を乗り越え、プレッシャーの強い環境で働いてきました。それらのスキルには千金の値打ちがあるのです」。


ロディ・グリーン元騎手についての事例

 ロディ・グリーン(Rodi Greene)元騎手は、2011年3月にリングフィールド競馬場でオッズ50-1(51倍)の馬に騎乗し落馬してから、4000回以上騎乗したキャリアが突然終了しただけではなく、将来の計画が完全に狂ってしまった。

 41歳のグリーン氏は、この落馬事故で椎骨がずれて5週間寝たきりとなり、右腕はしばらくの間麻痺していた。同氏は、「その当時私はキューカード(Cue Card)など70頭以上の勝馬を含む多くの馬に騎乗できる状況で将来は安泰だと考えていました。そのためには健康でなければなりませんが、今では私の腕は思うように動きません」と語った。

 そして、「私はこのような事態への心の準備はできておらず、もう二度と騎乗できないことを受け入れるのに6ヵ月掛かりました。好きなことをして20年間過ごしてきましたが、突然それを取り上げられ、将来までも取り上げられてしまいました。精神的にも肉体的にも、かなりつらい事でした。本当に暗い日々でした」と続けた。

 妻と3人の子供がいるグリーン氏は、プロ騎手保険制度(Professional Riders Insurance Scheme)を含む競馬界の支援ネットワークに敬意を払っており、「キャリアを終わらせるような大怪我でしたので、収入は断たれてしまいました。支援ネットワークは私が再び心のバランスを取り戻すのに時間を与えてくれました。それがなかったら私たち家族は皆路頭に迷っていたでしょう」と付け足した。

 グリーン氏は今やナイジェル・ホーク(Nigel Hawke)厩舎のために乗れるまで回復し、騎手コーチも務めている。同氏は個人経営のマイクロバス会社を設立した。

 そして、「会社の仕事には専念しなければなりませんが、もちろん馬に騎乗したいです。人々はジェットコースターに乗るためにお金を払って列を作りますが、騎手であれば1日に5回か6回それを味わいます。それに取って代わるものはありません」と付言した。

By Nicholas Godfrey

(関連記事)海外競馬ニュース 2012年No.22「騎手協会、騎手のメンタルヘルスのための電話相談開設(イギリス)」

[Racing Post 2012年11月23日「What Happens Next?」]


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