馬の心理学者、馬の恐怖症克服に救いの手(アメリカ)【その他】
稲光りと同時に、稲妻が闇を切り裂き、超現実的な光が牧場を照らし、雷鳴が大地を揺るがし、その衝撃が馬体にも伝わる。直後に、落雷した厩舎に煙が出て火災が生じ、パニックに陥った馬のいななきが厩舎中に響き渡る。
レスキュー隊が崩壊した厩舎に入り、恐怖にすくむ馬を安全な場所に移動させる。肉体的にかすり傷だけですんだとしても、恐ろしい経験は馬に深い心の傷を残す。これは、型どおりの調教をいかに繰り返しても癒せるものではない。
雷恐怖症は、犬にも起こる。犬は雷鳴が轟くと、家具の下に隠れたり、家の中に入れてもらうためにドアを引っかいたりする。しかし、体重1000ポンド(約453.6 kg)の馬が雷の気配を感じた途端に起こすパニックは、もっと重大な問題を引き起こす。
ここでタフツ大学獣医学部カミングス校動物行動クリニック(Behavior Clinic at Tufts University's Cummings School of Veterinary Medicine)の所長ニコラス・ドッドマン(Nicholas Dodman, B.V.M.S.)博士が登場する。認定獣医動物行動学者の会の役員であるドッドマン博士は、“レインマン(Rain Man)”と呼ばれる馬から不安を取り除くという大変手間がかかる治療を行った。
ドッドマン博士は、「深い心の傷を負った馬は、ただの騒音恐怖症というわけではなく、明らかに状況の変化に反応するタイプの恐怖症であることが分りまし た。すなわち、同じような状況に陥ればいつもパニックを起こします。屋根を叩きつける雨の音、吹きつける風の音、そして雷の轟音など、厩舎における特別な 状況すべてです」と述べた。
ドッドマン博士は、自身のタフツのクリニックにレインマンを連れてきた。クリニックでレインマンは意図的および段階的に恐怖を与える環境にさらされた。 レインマンのアルミニウム製馬房の天井に強力な噴射器で水を吹きかけて豪雨に似た轟音の状況をつくり、レインマンの反応を引き出し、観察した。レインマン が不安神経症の徴候を見せたり、パニックを起こし始めたら、直ちにこの試行を中断した。
動物にとって、ドッドマン博士は精神科医に相当する。同氏は、動物行動学の分野で専門的なトレーニングを積んだ獣医師である[一般に心理学者は博士号 (Ph.D.)を持つが、医師の免許は有していない]。ドッドマン博士はレインマンに抗不安神経症の薬物治療下で、不安を惹き起こす環境を段階的に強めて いった。その結果、最終的には、レインマンは天井への水の噴射を恐れなくなった。しかし、レインマンは現実の雷雨でも恐怖を克服できるのだろうか?
「ある夜ふと目を覚まし、空が稲妻で光っているのに気がつきました。」とドッドマン博士は言った。彼はすぐに、強い恐怖症を発症しているレインマンのこ とを思い出した。「午前1時半ぐらいでしたが、私はすぐにタフツの厩舎に電話しました。レインマンは雷雨のさなかにあっても静かにたたずんでいるとの報告 を受け、治療が成功したことが分りました」。
トレーナーか動物行動学者か?
動物行動学者は、(1) 馬が恐怖症を克服し、(2) 攻撃性を和らげ、(3) 衝動強迫(訳注: 自己の意志・願望に反したことを行おうとする強い衝動)に打ち勝つのを助ける。飼主はこの主な3つの分野で、動物行動学者の協力が必要である。トレーナーは馬に特別な課題を与えて教え込む。時には、動物行動学者とトレーナーが一緒に取組むこともある。
ペンシルバニア大学ニューボルトンセンター(University of Pennsylvania’s New Bolton Center)で馬行動学プログラム(Equine Behavior Program)を指揮するスー・マクダネル(Sue McDonnell)博士は、「問題行動に上手く対応できる優秀なトレーナーは、診断や問題行動の矯正を行う際に、我々に多大な貢献をしてくれます」と述 べた。しかし同博士は、トレーナーたちの中には自己流の治療法や調教哲学に固執する者がいるが、それは科学的に信頼できるものではないと警告した。
多くのトレーナーが「自分は馬と話ができる(whisperer)」と主張し喧伝したりしますが、行動矯正のために必要かつ十分な調教ができる訳ではあ りません。コーネル大学(Cornell University)の動物行動学者キャサリン・ハウプト(Katherine Haupt)博士は、「私は馬運車に乗ろうとしない馬を診察したことがあります。馬を馬運車に乗せることができたのは、有能なジョン・リヨンズ(John Lyons)トレーナーだけで、ほかの人々は(リヨンズトレーナーの講習を受けた者も含め)誰一人できませんでした。ですから講習を受けても、効果の保証 はありません」と語った。
ハウプト博士はホースマン(飼主・生産者)に、こうしたトレーナーに馬を預ける前に、かつて預けた経験のある飼主から意見を聞くことを勧めている。
ドッドマン博士は、「トレーナーは、他の面では精神的に健全な馬に対して、日々の生活の中で見られる問題行動の矯正をします」と述べた。
有能なトレーナーにとって、後肢を蹴り上げる馬や、馬運車に乗ろうとしない馬は、腕の見せ所だが、自らや他馬を傷つける恐れのある馬については、行動学者が有する、より多くの専門知識と技術が必要となる。
動物行動学者は、馬を服従させることに専念するトレーナーとは違い、包括的なアプローチをすることが特徴であり、全体像を見てから治療方針を決定する。 獣医師でない動物行動学者は通常、まず獣医師に協力を求め、獣医師は馬が恐怖症、攻撃性、衝動強迫を惹起する原因ないし一因となる基礎疾患がないか検査す る。
ドッドマン博士によれば、動物行動学者が治療方針を決める前に、以下の質問により問診する。
- 馬は薬物投与されている状態にあるか?
- 馬は適切な量の運動をしているか?
- 馬は正しい分量の餌を与えられているか?
- 飼主は適切に馬と交流を持っているか?
- 飼主は馬の興味に応えているか?
- 馬が攻撃性を増大させるほど孤独な状態にあるか?
- 馬は生きがいのある生活を送っているか?
- 馬は馬房に遊び道具を持っているか?
- 馬はどのような活動をしているか、それを楽しんでやっているか?
- 飼主はホースマンとしてどれだけ優秀か?
- 飼主の管理はどれだけ上手くできているか?
この情報を参考にして、動物行動学者は心理学的手法を適用しながら、馬の不安を取り除く薬物治療も含む治療計画を考える。
ドッドマン博士は、「私はA状態からB状態に円滑に移行させるために薬物を使用します。その後は適宜薬物の投与を中止すればいいのです」と述べ、馬は恐怖症の克服に関しては人間より利口に見えると付言した。「恐怖を受けない環境に置かれると馬は安心します」。
ドッドマン博士は飼主に、問題を抱える馬の様子をもっと綿密に観察し、人間がもし同じような状況に置かれた場合に我慢できるか考えてみるよう勧めている。 1日23時間馬房の中で孤立させられる状況がその一例だ。ドッドマン博士は“人間の性格と感情を馬に重ね合わせる (Anthropomorphizing)”という言葉に要約し、より頻繁にこれを行うべきであると考えている。
同博士は、「馬は記憶し、学ぶことができ、感情があるから、恐れを抱き、怒ります。まったく人間と同じです。実際のところ馬は私たちが考えているよりずっ と利口です。したがって、もしあなたが、馬は現在の状況を好んでいないか、楽しんでいないだろうと判断した場合、それは多分正しいでしょう」と語った。
繁殖行動
動物行動学者が対象とするのは、危険な動物ばかりとは限らない。
マクダネル博士は毎年、短期間の講習を開催している。ニューボルトンで開催される“種牡馬の適正な取扱法(Just Stallion Handling)”の講習は、いかに種牡馬を適切に取り扱うかをホースマンと獣医師に教えるためのものである。
繁殖生理学と動物行動学の博士号を有するマクダネル博士は2008年に、2002年ケンタッキーダービー(G1)とプリークネスS(G1)の勝馬ウォー エンブレム(War Emblem)の繁殖行動障害の治療を手助けした。同馬は繁殖牝馬の選り好みが激しく、日本で5シーズン種付けしたが、産駒の数は非常に少なかった。
2009年の春、マクダネル博士は初春から始められるウォーエンブレムの治療計画を公にした。その概要は次のとおりである。
(1) 自然な性欲と繁殖を確実にするために厩舎と管理体制を変更する。
(2) 性的反応を最大限にするために種付所における取り扱い方法を変更する。
(3) 必要に応じて注意深くホルモン投与を行い、性的衝動を高めさせる。これにより同馬に自信を付けさせ選り好みを減少させる。
5月中旬までに、ウォーエンブレムは1日に1頭以上種付を行っており、ほとんどの牝馬に対して正常な性行動を見せている。
動物行動学専門医の資格
米国獣医動物行動学会(American College of Veterinary Behaviorists: ACVB)と動物行動学会(Animal Behavior Society: ABS)の2つの団体が、動物行動学専門家になるための教育と臨床経験に関する基準を定め資格を認定している。
ACVBは専門委員会を設置し、獣医師における動物行動学専門医としての基準を設け、認定を行う。認定を受けた獣医師の名前の後ろには、ACVBあるい はDACVB(Diplomate of the American College of Veterinary Behaviorist)という認定称号を付する。動物行動学専門医の認定を受けるためには、獣医師の免許を取得していなければならない。これは、人間行 動学の専門家である精神科医の場合と同様である。
ABSは、動物の行動の基礎的解明や研究に関心のある教育者や研究者などの専門家による組織である。ABSとそのサブグル−プである応用動物行動学 (Applied Animal Behavior)のメンバーはともに、獣医師資格もしくは動物行動学における博士号を有している。後者の博士は、医師免許は有していない人間専門の心理 学者に相当する。
認定応用動物行動学者の資格を有するマクダネル博士は、「正規の馬心理学者や動物心理学者はほとんど心理学者という言葉を使わず、むしろ馬/動物行動学 の専門家という言葉を使います。心理学者という言葉はだいたい人間専門の心理学の資格を有する人に対して使われる言葉のように思われます」と述べた。この グループにより資格認定された行動学者は、名前の後に“CAAB(Certified Applied Animal Behaviorist)”を付ける。
マクダネル博士は、馬に取組んでいる動物行動学者はほとんどいないと述べた。多くの動物行動学者は特定の動物種(一般に、犬、猫、鳥)に限って診療を 行っている。総合的な馬学科を有する大学は一般的に、学会の認定を受けた馬行動学専門講座を設けるか、専門家による講義を行っている。
タフツ大学は、ドッドマン博士のクリニックがVETFAX動物行動学診療プログラム(VETFAX Behavioral Consultation program)を担当している。獣医師だけが受講でき、講座では獣医師たちが、ドッドマン博士とそのグループと動物行動学の問題を検討し治療計画を練 る。
ドッドマン博士は、その講座で次のように述べている。「馬が強迫性障害だと分れば最善の食餌療法、運動、意思疎通などの基本的な事柄から始めます。治療 にあたって調教が必要であれば、この問題に依頼人と一緒に取組むことのできるトレーナーに頼みます。いかなる行動矯正療法においても、施すべき医学検査、 役立つであろう薬物を提案し、完治まで正確にはどれだけ時間が掛かるか、そして期待するレベルで成功を収める確率は何パーセントかを伝えます」。
「資格取得のためのコストはそれほど大きくありませんが、実際獣医師は多くのことを学びます。さく癖(訳注:横木などに切歯をひっかけ空気を飲み込む。疝痛を発症することがある)の症例に取組んだ獣医師には、今後5年間さく癖に関する最新情報を送ります」。
参考となるウェッブサイト
動物行動学者に相談しようとするホースマンは、次のウェッブサイトを閲覧すれば、自身の地域に資格を有する者がいるか調べることができる。米国獣医行動 学会(ACVB)のウェッブサイト(www.veterinarybehaviorists.org)では“About Us”を選択し“Diplomates”をクリックすれば、有資格者のリストを閲覧することができる。 動物行動学会(ABS)のウェッブサイト(www.animalbehavior.org)では、左側のメニューにある“Behaviorist Directory”を選択すれば、そのメンバーリストを閲覧することができる。 ウェッブサイトには個人メンバーについての総合情報が掲載されており、関連する大学や臨床診療へのリンクが貼られている。残念ながら、いずれの機関のリストも個人メンバーが専門とする動物の種類を記していない。 |
馬は精神を患い得るか?
馬の異常行動は妄想型統合失調症(paranoid schizophrenia)であると信じる者もいるが、タフツ大学獣医学部カミングス校の動物行動クリニックの所長ニコラス・ドッドマン博士はこの深刻な精神疾患に馬が罹患することはないと述べた。 ドッドマン博士は、「多くのおびえている馬は、鞭を持った人間、ブーツや騎乗帽を身に着けた人間あるいは過去に自身を傷つけた人間に警戒心を抱いている ので、妄想症患者のような振舞いに見えるかもしれません。馬はまったく穏やかな状態から、突然パニックに陥るのです。飼主は馬が統合失調症であると結論付 けるかもしれませんが、いかなる家畜にも統合失調症は見られません」と語った。 馬における強迫性障害は、特に競走馬においてはありふれたものである。常同的異常行動とされるものには、さく癖と(訳注:熊のように馬体を左右に揺する 癖。肢勢や蹄形の異常の原因になる)が含まれている。ドッドマン博士は、他の専門家とともにトゥレット症候群(Tourette’s syndrome 多系統性痙攣を示す病態)と判定した珍しい馬の強迫性障害を発見した。 トゥレット症候群は、無意識で小刻みの唐突な痙攣を特徴とする神経精神疾患である。人間におけるトゥレット症候群の患者の15%以下が、無意識に卑猥な言葉を繰り返し発する。 人間と同様に、主に雄がトゥレット症候群に罹る。この病を患った馬は、明らかな頭部の痙攣を発症し、胸部や脇腹を強打し、時には自傷行為を働く。そして一方の脚で蹴り上げる。罹患馬の約10%が他の正常な馬が発することのないけたたましくしゃがれた鳴き声を出す。 ドッドマン博士は、「彼らは馬房の中の匂いをクンクンと嗅ぎ、そこにある壁などの境界線を非常に気にします。馬房を出入りするときに、馬はまったく人間のトゥレット症候群と同様に入り口で立ち止まったり飛び越えたりします」と語った。 ドッドマン博士は珍しい強迫性障害に関するいくつかの研究を実施し、臨床研究された馬の1頭ペッパーベル(Pepper Belle)は、トゥレット症候群協会(Tourette Syndrome Association)の標章となった。 |
By Denise Steffanus
[Thoroughbred Times 2009年6月6日「I’m listening…Horse psychologists help troubled animals overcome fear and lathing」]