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2023年02月22日  - No.7 - 4

殿堂入りトレーナーのジョン・ヴィーチ氏が77歳で死去(アメリカ)[その他]


 偉大なアリダーを手掛けた殿堂入りトレーナー、ジョン・ヴィーチ氏(77歳)が2月14日(火)にケンタッキー州レキシントンで亡くなったと、又従兄弟(またいとこ)のマイケル・ヴィーチ氏と長年の友人ボビー・ペン氏が発表した。

 ヴィーチ氏は1974年~2003年にビフォアドーン・デヴォナデール・アワミムス・サンシャインフォーエバーというエクリプス賞受賞馬4頭と、デヴォナデールとともに殿堂入りを果たしたアリダーを管理した。カルメットファームの自家生産馬アリダーは3回もアファームド(1978年米国三冠馬)の2着に入った善戦マンとして知られるが、1978年トラヴァーズS(G1)優勝を含むG1・6勝を達成しており、1990年にはリーディングサイアーに輝いている。

 1970年代に本誌(ブラッドホース誌)に寄稿していた作家のエド・ボーウェン氏は、ヴィーチ氏の"スポーツマンシップと前向きな姿勢"をこう回顧する。

 「彼は驚異的な馬、アリダーを手掛けていましたが、ただアファームドにはよく負けてしまいました。アリダーはあんなにも優秀な馬だったのに...。アリダーがベルモントで敗れてアファームドが三冠を達成した翌日、ヴィーチはベルモントパークの厩舎地区でジャガーのそばに座り込んで、なんとまあチョコレート味のアイスキャンディー(fudgsicle)なんかを食べながら、『まだあの馬に勝てると思うんだ』と言っていました」。

 「立ち直りが早くて、とても熟練したホースマンであり、素晴らしい輝きを放っていました。すごく個性的でしたね」。

 殿堂入りジョッキーのホルヘ・ベラスケス氏は訃報を聞いて悲しみをあらわにした。彼はデヴォナデール・アワミムス・アリダーなどヴィーチ厩舎の多くのトップホースに騎乗した。

 「ジョンとはとても仲が良かったのです。私を完ぺきに扱ってくれました。尊重して接してくれたのです。私の騎乗ぶりを信じてくれたので、私も彼を信じました。偉大な調教師でしたから。それに素晴らしい人物でした」。

 殿堂入りトレーナー、シルベスター・ヴィーチ氏の息子であるジョン・ヴィーチ氏は調教生活で410勝を達成した。そのうち76勝は重賞競走、93勝はステークス競走で挙げたものだ。そして2007年に自らも殿堂入りを果たしている。

 国立競馬博物館(National Museum of Racing ニューヨーク州サラトガスプリングス)で歴史学者を務めるマイケル・ヴィーチ氏は、「ジョンは父親と同様に殿堂入りできたことをすごく誇りに思っていましたね。彼の人生で記念すべき日だったのです」と述べた。

 ジョン・ヴィーチ氏は、傾きつつあった伝説的なカルメット牧場の再興に尽力した。1976年から1982年にかけてカルメットの馬を管理したのだ。また一時期は、もう1つの歴史豊かな牧場、ダービーダンファームの馬を手掛けて成功を収めた。

 マイケル・ヴィーチ氏は、「ジョンが一番幸せだったのは、複数の馬主に責任を負わなくても良かった時代だったからです。あの世代はそういうものでした。彼のホースマンシップがそれを物語っていると思いますよ。殿堂入りとはそういうものです」と語った。

 ヴィーチ厩舎のデヴォナデール・アワミムス・ビフォアドーン・サンシャインフォーエバーは最優秀2歳牝馬から最優秀芝牡馬までエクリプス賞の幅広い部門で受賞を果たした。サンシャインフォーエバーは1988年BCターフ(芝G1)で2着に入っている。

 カルメットファームのデヴォナデールは新旧の牝馬三冠を達成した。つまりケンタッキーオークス(G1)とブラックアイドスーザンS(G2)に加え、ニューヨーク牝馬三冠と言われるエイコーンS(G1)、マザーグースS(G1)、コーチングクラブアメリカンオークス(G1)を制したのだ。

 アリダーはアファームドを3度負かしており、中でも有名なのはシャンパンS(G1)での勝利と、審議を経てもぎとったトラヴァーズSでの優勝である。またフラミンゴS・サプリングS・フロリダダービー・ブルーグラスSといったG1競走も制した。ホイットニーS(G2)では古馬を撃退して10馬身差の勝利を収めた。

 ジョン・ヴィーチ氏は1988年のブリーダーズカップ開催で、「アリダーの三冠競走でのアファームドとの戦いぶりは、いかなる価値も奪うものではありません」と語っている。

 彼は1985年にBCクラシック(G1)をプラウドトゥルース(馬主:ダービーダン)で制し、1983年にメトロポリタンH(G1)をスターチョイス(馬主:フランシス・ジェンター氏)で制した。サンシャインフォーエバー以外に管理したダービーダンの馬には、フロリダダービー優勝馬のブライアンズタイム、イエローリボン招待S(芝G1)とクイーンエリザベス2世チャレンジカップ(芝G2)の優勝馬プレンティオブグレースなどがいる。

 ヴィーチ氏は1988年のブリーダーズカップ開催で、「レースの観点からするとBCクラシックはこれまで制した中で最もワクワクしたレースと考えなければなりません。素晴らしいことでした。ダービーダンの創設者ジョン・W・ガルブレス氏のような競馬界に大きく貢献した人物のために優勝できたことは、彼にとっても大きなスリルであり、私にとってはさらに大きなスリルでした」と語っている。

 キーンランド競馬場の元競走担当副社長ロジャーズ・ビーズリー氏はヴィーチ氏を"いつも一流に振る舞う真の紳士"と評した。

 「彼は調教だけでなく誰に対しても礼儀を重んじる古風な人でした。レースでは常にコートを着てネクタイを付けていましたね。過ぎ去った時代の産物であり、紳士だったのです」。

 ヴィーチ氏は調教師としてのキャリアを終えてから、ケンタッキー州競馬委員会(KHRC)の上席裁決委員になった。そして2010年BCレディースクラシック(G1 チャーチルダウンズ)で起きた騒動の余波を受け、最終的にその職から退くことになった。全米中継されていたこのレースの直前のインタビューでジョン・ヴェラスケス騎手がG1馬ライフアットテンの返し馬での様子に懸念を表明したにもかかわらず、この馬が出走を許されたことが問題となったのだ。

 ライフアットテンはレース中に忍耐強く走ることができず、かなり人気を集めていたにもかかわらず最下位に終わった。しかし競走後の薬物検査の対象馬には選ばれなかった。

 KHRCはその後、いくつかのルールに違反していたとしてヴィーチ氏に制裁を科した。

 ペン氏は「彼は戦っていましたね。不当な扱いを受けたと思っていましたから」と述べた。

 ペン氏によると、ヴィーチ氏は物静かな面もあればユーモアのセンスを発揮して人を笑わせることもできたという。2人は一緒に狩りに出かけることもあった。そして2月14日(火)にペン氏はレキシントンのヴィーチ氏の家に立ち寄ったときに、ヴィーチ氏が亡くなっているのを発見した。レキシントン生まれのヴィーチ氏は、調教師だった頃はニューヨークのオールドウエストバリーに住んでいた。そしてケンタッキーのKHRCに勤め、そこを去ってからもケンタッキーにとどまっていた。

 ジョン・ヴィーチ氏の遺族には、娘のシャノンさんと息子のジェイソンさんがいる。またマイケル・ヴィーチ氏をはじめ多くの親戚がいる。

 3人目の妻であるエリスさんは2017年に亡くなっている。彼はサラトガスプリングスの墓地で彼女のかたわらに埋葬される予定だと、マイケル・ヴィーチ氏は述べている。

By Frank Angst and Byron King

 (関連記事)海外競馬ニュース 2011年No.49「ケンタッキー州のヴィーチ裁決委員、理由もなく解雇される(アメリカ)

[bloodhorse.com 2023年2月14日「Hall of Fame Trainer Veitch Dies at 77」]


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