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2023年06月29日  - No.24 - 4

バーバロでケンタッキーダービーを制したエドガー・プラード騎手が引退(アメリカ)[その他]


 殿堂入りジョッキー、エドガー・プラードが母国ペルーを離れて米国で騎乗することを決めたとき、2年ほど滞在してお金を稼いで弁護士になるという計画を立てていた。

 しかしよく練られた計画にしばしば起こることだが、"愛"により狂わされてしまった。

 プラードは騎乗する馬に惚れこみ、2年程度のつもりだった滞在が40年近くになった。そして今、56歳のプラードはサラブレッド競馬界から足を洗おうとしている。6月20日に本誌(ブラッドホース誌)に対し、家族ともっと長い時間を過ごすために引退すると述べ、「騎乗機会を得るのがだんだん困難になってきていましたし、家族や愛する人々と過ごす時間を犠牲にしてきました」と語った。

 数ヵ月前から引退のことが頭にあったが、最終的に決断したのは父の日(6月18日)だったと言う。

 「家で子どもたちが楽しく過ごしているのを見て引退を決意したのです。終始とても恵まれたキャリアでした」。

 プラードは1月6日にガルフストリームパーク競馬場で騎乗したのを最後に、騎乗機会を探していた。しかしチャンスはなかった。月に一度しかコースを回らないゴルファーのように、騎乗機会がないため良い成績を残すことに苦心していたのだ。

 「調教師に関しては誰もが新しい騎手に乗ってもらいたがっていました。それは身にしみて分かっています。私も20歳のときには誰かのポジションを奪っていたので、今はポジションを奪われる側です」。

 たとえ比喩的な表現であっても、プラードのポジションを奪うことは難しいだろう。

 プラードは北米で賞金2億7,200万8,849ドル(約394億4,128万円)を獲得して、獲得賞金ランキング9位で引退する。北米での通算成績は3万9,725戦7,119勝で最多勝ランキングでは8位。2006年にはバーバロでケンタッキーダービー(G1)を制し、ベルモントS(G1)を2勝している(2002年サラヴァ、2004年バードストーン)。これらのベルモントSの勝利により、ウォーエンブレムとスマーティージョーンズの三冠達成を阻んだ。

 プラードは2000年代前半、さまざまな調教師のトップクラスの馬に騎乗する中で、ケニー・マクピーク調教師が手掛けたサラヴァに騎乗した。マクピーク調教師は、「エドガーはいつも素晴らしい仕事をしてくれました。彼とはいつも良い結果を出すことができました。本人も誇らしく思っているはずです。自分が成し遂げたことをとても名誉に感じているに違いありません。まったく特別な男ですよ」と語った。

 マクピーク調教師は、2002年ベルモントSの前にパドックで、単勝71倍の大穴サラヴァに跨ろうとしていたプラードに対して出した指示について思い出した。

 「世界に衝撃を与えてこい」。

 そしてサラヴァとプラードはベルモントS史上最大の番狂わせを成し遂げた。

 マクピーク調教師は「彼のお気に入りの指示は"グッドラック"という類のものでしたね。そういうのが一番好きだったのです」と述べた。

 ほかの偉大なジョッキーと同様に、プラードが聞きたかったのはそれがすべてであり、一番実感していることでもあった。

 1986年に家族と友人を残して米国に移住することは厳しいものであり、プラードはその過程で多くの障害に直面した。

 プラードは「簡単ではありませんでしたね」と述べる。

 メリーランド州でキャリアが軌道に乗り成功を収め、続いて1999年に騎乗拠点をニューヨークに移し、NYRA(ニューヨーク競馬協会)のサーキット(開催日が重ならないように日程を合議して決めた競馬場の一群)の11開催でリーディングタイトルを獲得した。ケンタッキーダービーを制した2006年には最優秀騎手としてエクリプス賞も受賞した。

 プラードは3年連続(1997年~1999年)で全米リーディングに輝いた。1997年には年間500勝以上を挙げた4人目のジョッキーとなった。また、ブリーダーズカップ開催でも5勝を挙げている。

 バーバロを手掛けたマイケル・マッツ調教師は、1990年代から2000年代にかけての全盛期にプラードがいかに引っ張りだこだったかをこう振り返る。

 「バーバロのようなすごい馬がいないかぎり、彼を騎乗させられませんでした。それほど人気があったのです。だけど年を取ればみんなそうです。いつだって俊敏な若者に取って代わられるのです」。

 マッツ調教師は、彼らはお互いを尊重し合う良い関係だったと述べた。

 10年前に"引退すべきだ"と考えていた人もいたと、プラードは言う。そして、最善の決断を下すには自分の心の声を聞いてみることが必要だったと振り返った。そうしなければ、2015年の最優秀スプリンター、ランハッピーのような馬に乗ることはできなかっただろう。

 マクピーク調教師はこう語った。「彼は馬に乗るのが好きだったので乗り続けたのです。乗る必要があったからではありません」。

 「誰だって引退したくはないものです。でも、そうせざるを得ないこともあると考えます。それも人生の一部ですが、エドガーにとっては良かったと思っています。つまり彼が安っぽい馬や、その力量にそぐわない馬に乗るのを見たくはありませんでした。だからエドガーが引退する時が来たのだと思いますし、ボロボロにならず無事に引退できて良かったです」。

 2008年に殿堂入りを果たしたプラードは、引退に至るまでの過程で自らのキャリアを振り返る機会を得たと言う。

 プラードはこう語った。「並々ならぬ努力が必要でした。授けられたものは何もありませんでした。覚悟を決め、自己を向上させるために働きました。上に行けば行くほど、競争は厳しいものになりました」。

 「ベストを尽くしました。すごく競争心が強かったですね。勝ちたかったからではなく、その特別な瞬間に特別な馬に乗せてくれた人に感謝したかったのです」。

By Joe Perez

(1ドル=約145円)

[bloodhorse.com 2023年6月20日「Hall of Fame Jockey Prado Announces Retirement」]


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