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2022年09月15日  - No.34 - 4

リチャード・ヒューズ調教師、アルコール依存の過去について語る(イギリス)[その他]


 人生はときに不公平なものだ。まだ朝の10時なのに、30分前にベーコンロールを食べたリチャード・ヒューズは、おまけとしてヴィクトリアケーキの2切れ目を平らげたところだ。今でも台所のドアを通り抜け、4頭に調教をつけ、午後にはブライトンのレースで2頭に騎乗してしまうような、相変わらずの風貌だ。

 彼は騎手時代から体重が2ストーン(約8.2kg)増えたと言うが、5フィート9インチ(約175cm)の男が手足を失うことなく今より2ストーンも軽くなることなど考えることができるだろうか。今では10ストーン 6ポンド(約66.3kg)あると言う。とても軽いように思えるがほぼ平均的なものである。筆者は自分が10ストーン 6ポンドだった頃を思い出し、ケーキから遠ざかった。

 ヒューズはいろいろなことでよく知られていた。主として素晴らしいセンスと冷静さで大勝利を挙げることで有名だった。それに食欲や検量委員との終わりなき格闘でも名を馳せていた。はたから見ると大変そうだが、騎乗するために生まれてきた男にとっては、一日何も食べずに料理人のエプロンの匂いを嗅いで生きながらえることは公園を散歩するようなものだったらしい。慣れてしまえばの話だが。

 「減量はたやすいものでしたね。仕事の一部だと思って毎朝4~5ポンド(約1.8~2.3kg)ずつ落としていました。騎手という職業が大好きでしたから、騎乗するためには足を切り落とさなければならないと誰かに言われたとしてもそうしたでしょうね」。

 「もちろん大変なときもありました。減量しているとき、夜中に起きて冷蔵庫に入っているものの半分を平らげてしまうという悪夢を見ることもありました。目が覚めて"しまった、やってしまった!"と思うのです。そして体重計に乗って"食べていなかった"とホッとするのです」。

 「大抵のことはどうにかできたのでラッキーでした。でも騎乗していたころは、"土曜日までに8ストーン7ポンド(約54kg)にしないといけない"と水曜日に言われると、突然食べたくなったものですが、最近は一日中食べるのを忘れていても全然食べたいと思わないんですよ」。

  "ヒュージー"はまたタバコに火をつける。タバコをやめるのはすごく得意だと彼は言うが、話を聞きに行ったのはちょうど彼がタバコをやめようとしているときだった。

 「4年間やめていたんです。夜外出したときに風変わりな葉巻を嗜んでいたら、葉巻を吸いすぎるようになってしまって、またタバコを吸うようになったのです。1月にやめて6月にまた吸い始めたのですが、ロイヤルアスコット開催の後にやめようと自分に言い聞かせて今は毎朝10分までと決めているのです」。

 「きっとまたやめるでしょう。でもハマりやすい性格なのです。タバコを吸っているところやゴルフをしているところを見ていただければ、言わんとしていることは分かってもらえると思いますよ」。

 一言でいえば、ヒューズが転落してしまうの原因はそこにあるのだ。過去をさかのぼれば、彼は外面的には同世代の騎手の中で最もスタイリッシュで賞賛される存在だったものの、内面的には決して単純ではなかったのだ。やせた男はさらにやせる必要があり、危ない解決策を見つけていたのだ。

 その答えは大酒を飲むことだった。体重を抑制するのに酒は役立ち、彼は酒とそれにまつわるほとんどすべてのものを愛した。しかしアルコールとハマりやすい性格は、すさまじい飲酒文化の中では切っても切り離せないものであり危険な組合せであることに、彼は徐々に気づいていった。

 そして、「それがきっかけでした。騎手になったときに飲酒はここの文化でしたね」と振り返った。

 「アイルランドではレースで騎乗した帰りに"99アイスクリーム"を食べるために寄り道するのが習慣でした。アイスクリーム屋は全部知っているんです。英国では酒屋に立ち寄るので、ビールを4本買って帰り道で飲むのです。それを飲んでしまうと、パブでもう1杯か2杯飲みたくなるのです。誰も強制するわけではないのですが、自分の中で根づいていて"素晴らしいなぁ"と考えていたのです。騎手のあいだではそういう習慣がありましたね」。

 「シャンパンを一杯やりながら汗を流す輩もいましたね。アスコットでは第1レースで誰が勝とうと、検量室には氷で冷やしたシャンパンのボトルがあってその場で開けられるのです。だけど、私のバレットだったデイヴ・マストー(Dave Mustoe)が言うには、今年はアスコットの最終レースのあとにシャンパンが運ばれてきたものの、誰も飲まなかったそうなのです。信じられないほど変わってしまいましたね。進歩しているのでしょう。トミー・カーベリー(グランドナショナルで優勝したアイルランドの伝説的ジョッキー)の時代から私の現役時代、そして今にいたるまで、プロ意識が高まっていき、おそらく飲まないでも済むようになってきたのでしょう。しかし、自分がやってきたことを誰かのせいや何かのせいにするつもりはありません」。

 飲酒の長所は体重を減らし続けられることだが、だいたいにおいて騎手は医者でも栄養士でもない。ヒューズはやがてその長所が打ち消されるほど健康・気分・プロとしてのパフォーマンスが損なわれていることに気づいた。

 彼はこう説明する。「酒のせいで食べないで汗をかくようになるのかわかりませんが、でも実際に飲めば飲むほど体が軽くなっていったのです。まるで回し車の中にいるハムスターのようで、抜け出すことができませんでした。酒を飲み過ぎたり、大量の利尿薬を飲んだり、体重を減らすためにできることは何でもしていました。若くて粗野でクレイジーなとき、体はそれを受け入れられますが、そのうち病気になって疲れてしまい、脱水状態で最悪な気分になっていました。もう騎乗することを楽しめなくなっていたのです」。

 「フランキー(・デットーリ)も若いころは苦労しましたが、彼は酒を楽しんで止めることができました。アルコール依存ではないですね。私の場合は夜どおし飲んで、その次の夜も続けてしまっていたでしょう。アルコール依存は自らの一部になっているのだと思います。回復し始めてからやっと、アルコールが自分から何を奪っているのかに気づきました。騎乗することがそれまで唯一やりたいことだったのですが、アルコールは私からそれを奪っていました」。

 「だから、それが闘う原動力となりましたね。親しんでいた酒は敵になりました。同じ闘いに打ち勝ったジョニー・ムルタが力になってくれたおかげで、完全に酒を断つことができ、視界も良好になり、より頑張って働くようになったのです。ラッキーなことに、もう酒を飲みたいとは思いませんね。それに最近では騎手の習慣も良い方向に変わってきています。誰もサウナで酒を飲まなくなりましたし、サウナだってもうないのです!」。

 しかし酒が敵だとしても、ヒューズは飲酒の日々をまったく後悔していない。ただもう少し早くやめておけばよかったとは思っている。

 彼はテーブルから離れると、太り気味の馬のような筆者には出せないスピードで四輪駆動車に向かっていく。「誤解を恐れずに言うと、その時期はすごく楽しかったのです。だから後悔はしていませんね。たぶん5年早くやめれば良かったですね。そうすればもっと長くリーディングジョッキーでいられたと思いますから。最後の10年間は間違いなくもっといいジョッキーだったでしょうね」。

 「若いころは表面的で、手当たり次第、しゃかりきに取り組んでいて、自分が考えていたほど良くなかったと思います。しかしキャリア終盤には、ほとんどすべてにおいて主導権を取るようになっていました」。

「調教活動を今スタートさせたとしたら、1年以内に投げ出してしまうでしょうね」

 ヒューズは2015年、わずか42歳で騎手を引退した。時折、「なぜそんなに早くに引退したんだい?」、「復帰を考えたことはあるかい?」と聞かれる。人々は彼に、「フランキーは51歳で、君はまだ49歳だよ。最近は君のように乗れるジョッキーがいないんだ」と言う。

 しかしヒューズは何ひとつ変えようとしない。ちょうど良いタイミングに適切な決断をしたと断言し、依然として朝から騎乗しているが、今ではすっかり調教師である。

 「50歳になってから調教活動を始めるのは無理だと分かっていました。今スタートさせたとしたら、1年以内に投げ出してしまうでしょうね。なぜなら、厩舎運営におけるあらゆるストレスに耐えられないからです。調教師に転身した平地ジョッキーは苦労していましたので、自分も早く始めないといけないなと思っていたのです」。

 そのストレスの話をすると、彼の顔はまたほころんだ。

 「騎手時代はレース後に馬から下りて、その後に30秒馬主とおしゃべりするだけでした。調教活動を始めるとまったく違います。精神的にとても疲れるのです。セリも同じぐらい疲れますね。いちかばちかで馬を買ったり、ビジネスを営んだり、一日中人と接したりしなければならず、それはストレスになりますね。ただ、調教はずっとやりたかったのです。リーディングジョッキーになりたいと思い始めたのだって、調教するときの助けになると考えたからなのです(酒を断ってから7年後の2012年に最初のリーディングタイトルを獲得。その後このタイトルを2回獲得することになる)」。

 アイルランドの伝説的なトレーナー、デジー・ヒューズの息子として、おそらく彼は調教師になることを運命づけられていたのかもしれない。インドのM・A・M・ラマシュワミ博士(実業家・政治家・馬主)やウィルトシャーのリチャード・ハノン元調教師(父)など、さまざまな人物から学びながら歩んできた。しかし、このゲームがいかに人を奈落の底に突き落とすかをすでに見ており、痛々しいほど目を開いて新しいキャリアを開始した。

 「父が早くから奮闘していたのを思い出します。その頃、ひどく不振に陥っていたある厩舎から馬を1頭譲り受けたんです。するとすぐにウイルスが厩舎にまん延し、それが4~5年続いたので、どこから侵入してきたのか突き詰めようと気が狂いそうになっていましたよ」。

 「そこで全頭を厩舎から退去させました。突如としてふたたび勝利を挙げるようになりました。厩舎スタッフに1つ1つの馬房でタールを燃やさせていたのを思い出します。そして馬房にそれを塗って、すべての馬をふたたび入厩させました。それでも6週間もすると病気が再発したのです」。

 「それから彼は厩舎にあるヤシの木をすべて切り落としました。ウイルスが侵入したのはそこにたくさんいるカラスのせいかもしれないと考えたからです。だんだんと彼はおかしくなっていったのです」。

 「その後、ジョンズタウン馬センター(Johnstown Equine Centre)がやって来て、アスペルギルスというカビが壁で繁殖しているのを発見しました。それから彼は6週間ごとに厩舎に塗料を塗り、調教活動を再開させ、ハーディユースタス(Hardy Eustace)を購買したのですが、厩舎の馬が病気にならなかったら、ほかにもハーディユースタスなみに活躍する馬がいたことでしょう」。

 「敷地の一部を売却しなければならなかったり、1度か2度銀行に融資を打ち切られそうになったりと、本当に大変でした。それでも彼は自分を信じて乗り越えてきました。管理馬がよく走らないとき、私もそういった感情を抱くのです。ぞっとするようなことはままありますが、自分を信じ続けるしかないのです」。

 ヒューズは適切なタイミングで調教活動をスタートさせたとはいえ、決して楽な道のりではなかった。騎手時代はキャンフォードクリフスが大のお気に入りだったが、現在のところ彼の調教拠点であるウェザーコックハウスにはキャンフォードクリフスのような馬はいない。

 「あんな馬はそこそこいないんだということは分かっていたのです。でも、やっぱり現実把握はきちんとしないといけませんね。自分のところにはすごい馬がいると思っている調教師もいます。しかし、実際に乗ってみると、それが良い馬だけど本当に良い馬ではないということも分かるのです。それはややうんざりすることなのかもしれません。私にはそれを見抜く才能がありますが、時にはそれがなければと思うこともあります。なぜなら私はあまりにも現実主義者であり、場の空気を読めない人間だからです。リジー(妻)がそう思っているのは分かっています」。

 「おそらく本当に良い馬をまだ手に入れていないのです。それでもこれまでそんな馬がいなかった厩舎としてはよくやっていると思いますよ。70頭が在厩していますが、ほとんどの馬から最高の能力を引き出していると思いますし、勝利も挙げています」。

 「見習騎手のときは1勝を挙げるまでに50戦しました。リーディングジョッキーまでの道のりとなるとそれは誰にもわかりませんけれど。だからいつかは成功するだろうと思っています。なぜならベストを尽くし、正しいことをしているからです。馬主もそう思ってくれているので、夜もぐっすり眠れるのです」。

 「子どものころに夢見ていたように、今でもリーディングトレーナーになりたいかどうかについては分からないですね。厩舎スタッフの状況がこのままだと、そういった構想は遠ざかっていきますね。なぜなら、リーディングトレーナーになるために必要な管理馬250頭をいったいどうやって手掛けていけば良いのかという問題があるからです。大きい厩舎は勤務歴が20年以上のベテランスタッフがいるわけで、経験豊かなその人たちに追いつくのは無理です。そのような経験をどこから手に入れれば良いのでしょうか?」

 彼は最後のタバコを吸いながら、キングズダウンの調教走路を駆ける管理馬を見つめて、電話に出た。それはヒューズに預けている馬を手放そうとしている馬主から掛かってきた電話だった。「今やその馬は私のものでしょうね。だけど彼はちゃんと勝ちますよ」と彼はため息をついた。

 調教師がタバコを吸うには十分な状況である。

「騎手になりたいふりをしているだけなら、時間の無駄です」

 もはやアルコール依存になることはないが、彼にはいち早く競馬界で生きるために学業をやめることを父親に説得したような一途な思いが残っている。彼は人々がそのような衝動をもたないことを悪いと言っているわけではなく、ジョッキーとして頂点を目指すのであれば、その衝動が必要だと言っているのだ。

 「7歳のときにポニーレースで優勝しました。すっかり夢中でしたね。とにかく自分はジョッキーになるんだと思っていました。学校でほかの子が"何になるか分からない"と言うのが不思議でした」とヒューズは昨日のことのように思い出すのだった。

 「自分を見失わない素晴らしい環境にいたことはすごくラッキーでした。でも自らそれを望んでいたのです。うちの子どもたちがそういう時期を迎えたら、本当にそれを望んでいるかどうか分かるでしょうし、もし本当に望んでいないのならまったく勧める気はありません。プロの騎手になりたいふりをしているだけなら、時間の無駄です」。

 「ここに来る若者たちを見ていたら分かるのです。初日からすごくやる気になっている子もいます。春に肘を骨折したディオン・ルルーという厩舎スタッフは、翌日に腕を吊って厩舎を掃除していました。彼は私の力になってくれるでしょう。彼もそれをすごく望んでいるのです」。

 「そして意志が固まれば自分を信じて、他人のことなんてお構いなしですよ。私がそういった調子だったので、使ってくれない調教師もいたと思います。だけど、レースがどのように展開し馬が何を必要しているか理解していたので、自分を信じていました」。

 「舞台は大きいほど良くて、奮起するものなのです。私はいたって冷静でしたね。きっちりと仕事をして、勇気をもち、普段どおりの騎乗をすること。キャリアを通じてそうしてきたつもりです。自分を信じること、そしてうまくいかないときにはずぶとくなることを学ばなければなりません」。

 調教師にはやはり燃えるような情熱が必要である。しかし経験を積めば積むほど、子どもの時に父親から教わったことが、現在でも通じることに気づく。

 「馬のブラッシングが下手だとか、些細なことなのです。何ごとにも正しいやり方と間違ったやり方があるのです。どうして正しいやり方ができないのか私は理解に苦しむのです。それが唯一の方法だと思いながら育ってきたのですから」。

 「たしかにいろんなことが変わっています。私の時代のようにバカなことをやっていたら、今では騎手として長続きしないのは分かっています。しかし何が正しくて何が間違っているかは分かっていますし、父があのひどい時代を生き抜いてこられたのは、彼が正直で誠実で礼儀正しくて、良い人たちが彼のそばにいてくれたからだと分かっています。今となっては、私の中にも父のような部分がたくさんあることを知っています」。

By Peter Thomas

[Racing Post 2022年8月1日「'I knew I was drinking too much - I was on a hamster wheel and couldn't get off'」]


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