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2022年06月02日  - No.19 - 1

伝説の騎手、レスター・ピゴットが86歳で死去(イギリス)[その他]


 5月29日(日)、伝説の騎手レスター・ピゴットが86歳で亡くなったことを受け、競馬界にとどまらず各方面から追悼の言葉が寄せられた。

 最近入院していたピゴットは29日(日)の朝、スイスで穏やかに息を引き取った。ピゴットはジョッキーとして50年にわたって大成功を収めたことで世界中に知られ、引退してからも英国で最も有名なジョッキーであり続けた。

 その理由として、サー・ゴードン・リチャーズ、パット・エデリーに次ぐ英国競馬史上3番目に多い国内4,493勝を挙げた息の長いキャリアと、ビッグレースでの驚異的な成績が挙げられる。1970年の三冠馬ニジンスキーをはじめとする名馬に騎乗して、英ダービーで最多の9勝を果たしている。

 また"ロングフェロー(The Long Fellow)"の異名をとる身長5フィート8インチ(約173cm)の男が本来の体重より約30ポンド(約13.6kg)も少ない重量で騎乗するために格闘したことや、競馬でもプライベートでも逆境を跳ね返してしまう不思議な力も、人々に強い印象を与えた要因である。特に有名なのは、ロイヤルアカデミーで果たした1990年BCマイル優勝である。このとき彼は引退、そして服役期間を経て54歳になっていた。

 騎乗してきた選りすぐりの馬と同様に、ピゴットの血統はその職業にふさわしいものである。祖父アーニーはグランドナショナルで騎乗して3勝を挙げ、父キースは騎手としてチャンピオンハードル、調教師としてグランドナショナルを制した。

 ピゴットは1948年、わずか12歳のときにヘイドック競馬場でザチェイス(The Chase)に騎乗して初勝利を挙げた。見習騎手のリーディングに3度輝いたピゴットは1954年、18歳のときにネバーセイダイ(Never Say Die)で初めてダービー制覇を果たした。

 そして1960年から1982年までのあいだにリーディングタイトルを11回獲得し、英国クラシック競走で過去最多の30勝を挙げた。

 1985年に引退して調教師となったが、脱税の有罪判決を受け1年間の禁固に処されたためにそのキャリアは断たれてしまった。その後電撃的な復帰を果たし、さらに4シーズンにわたって騎乗した。

 ピゴットの騎手仲間だったウィリー・カーソン氏はこの伝説の騎手に敬意を表し、ピゴットのことを"馬上の魔術師"のようだったと表現した。

 「レスターは競馬界の象徴的な存在で、新入りの頃から引退するまで、あらゆるしきたりを変えてきました。彼が試みてくれたことのおかげでほとんどの騎手がよりよく騎乗できるようになり、全員がレベルアップすることができました」。

 「馬上の魔術師でしたね。それほど自信に満ち溢れていて、人がどう思うかなんて気にしていませんでした。ただ騎乗して正しいと思ったことをしていただけです。それは馬にとっても大抵正しいことでした」。

 「馬に感情移入して、馬が何を考えているのか分かっていましたね。厳しく接するのか、優しく接するのか、こらえさせるのか、ストライドを使わせるのか、馬が求めていることを分かっていて、彼はいつも正しい判断をしているように思えました」。

 またカーソン氏はピゴットがほかの騎手とどのように接していたかを話してくれた。

 「レスターはあちこちでオーラを放っていて、常に場を仕切っていました。誰もが彼を尊敬していて一目置いていました。とても思いやりのある人でもありましたね。騎手が怪我をして入院するようなことがあれば、そんな人は珍しいのですが、必ず見舞いに来てくれたものです」。

 「私たちは長年にわたり競い合ってきて、数々の懐かしい思い出とともに振り返ることができます」。

 クールモアの総帥であるジョン・マグニア氏はピゴットを"本当に偉大"と称賛し、マイケル・ジャーヴィス調教師が手掛けたグリーンゴッド(Green God)が1971年ヘイドックスプリントカップを制したときの逸話を回顧した。

 「もちろん悲しい日ではありますが、妻のスーと私には彼とのたくさんの逸話と素晴らしい思い出があります」。

 「1971年のヘイドックスプリントカップの前に、パドックでレスターに会ったのを覚えています。私たちのグループは2日ほど前にグリーンゴッドを購買していて、レスターはその馬のラストランとなるレースで騎乗しようとしていたのです」。

 「彼は私に『残り1ハロン(約200m)で期待しないでください。ゴールまで決着をつけるつもりはありませんから』と言いました。そして案の定、彼のトレードマークである"完璧なタイミング"で仕事をやってのけたのです」。

 「この季節になると、レスターがダービーでどの馬に乗るかいつも椅子取りゲームをしていてヴィンセント・オブライエンはいつもイライラしていたのです。しかしヴィンセントは、『我慢しないといけないね。レスターに乗ってもらわないと、ライバルに7ポンド(約3.2kg)のアドバンテージを与えてしまうようなものだ!』と言っていました」。

 「彼は本当に偉大でした。彼の家族にお悔やみを申し上げたいと思っています」。

 ピゴットが達成した英国クラシック競走30勝のうち9勝は、伝説のトレーナー、ヴィンセント・オブライエン調教師の手掛けた馬によるものだ。その息子で調教師であるチャールズ・オブライエン氏は"驚異的に優れたジョッキー"に賛辞を贈った。

 「レスターと父には、以心伝心のようなものがあったと思います。彼らはいつも、お互いに言いたいことをすごく簡潔に伝えることができたのです」。

 「2人はお互いにすごく尊敬しあっていて、それゆえに関係がとても長く続いたのだろうと思います。いずれもこれほど素晴らしい相手はいないと分かっていたのです」。

 「レスターが初めて父のために騎乗したのは1950年代後半のことだったと思います。1958年にイボアHとゴールドカップを制したグラッドネスは、彼らにとって最初の大きな成功だったと言えるでしょう。まだ子どもだった私の近くにはレスターがいつもいたのです」。

 「驚異的に優れたホースマンだっただけに、時に大目に見られてきたものもあるように感じます」。

 「騎乗についての指示という点では、あまり多くを語りませんでした。いずれにせよ彼が無視してしまうので、指示する意味があまりなかったということもあります。それに、彼はレースを自分で判断することができたのです」。

 ロイヤルアカデミーのベルモント競馬場でのBCマイル優勝は、チャールズ・オブライエン氏にとって忘れられないものになったようだ。

 「当時はバリードイルでフルタイムで働いていて、その頃父は遠征に同行してなかったので、私が一緒に行くことになったのです。おかしな話なのですが、レスターがレース前に緊張しているのを見たのはその時が初めてだったと思います。いつもは氷のように冷静なのですが、54歳にしては重大な仕事だったのです。確かに不安そうにしていましたが、見事なレースをしました。すごく特別な日になりました」。

 ジョン・ゴスデン調教師はピゴットのような存在は"二度と現れない"と考えており、次のように述べた。「レスターは並外れた、まったくユニークな人物であり騎手でした。私が初めて彼を知ったのは、彼がサー・ノエル・マーレスとヴィンセント・オブライエンのために騎乗していた1970年代のことです。彼らはレスターの言うことすべてに耳を傾けて反芻していました。言っていたことは非常にわずかだったけど的を射たことだったんだろうと思います」。

 「彼らはレスターがレースや調教で馬の特徴を感じ取ることに敬服していました。レスターはより自分が納得できるように調教師からの指示を変えてしまうことで有名でした。しかし、それはいつも自分のルールを貫いていたレスターらしいことでした。彼のような人は、もう二度と現れないでしょう」。

 スイスにいるピゴットの息子ジェイミー氏は29日(日)の夜に、「素晴らしい父親でありレジェンドでした。それを目にすることができて私たちは皆とても幸運でした」と語った。

 29日(日)にロンシャン競馬場で行われた2つのG1競走のあいだに、ジョッキーたちは1分間の黙祷を捧げた。そのとき大きなスクリーンにピゴットの姿が映された。彼らはその日の第3レースで黒い腕章をつけ、一日中それを身に着ける騎手もいた。

 また同じ日のフォントウェル競馬場とアトックスゼター競馬場の第1レースの前とパンチェスタウン競馬場の第2レースの前にも、1分間の黙祷が捧げられた。

By Jack Haynes and David Milnes 

[Racing Post 2022年5月29日「Lester Piggott, legendary jockey and nine-time Derby winner, dies aged 86」]

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