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2022年03月31日  - No.12 - 4

1996年ケンタッキーダービー優勝馬グラインドストーンが29歳で死亡(アメリカ)[生産]


 グラインドストーンは、ジャック・ルート氏のオークハーストサラブレッズ(オレゴン州ニューバーグ近郊)で息を引き取った。慈善活動を通じて生産されたグラインドストーンは1996年ケンタッキーダービー(G1)で競馬の頂点を極めた。

 29歳だったグラインドストーンは存命する中で最高齢のケンタッキーダービー優勝馬だった。

 故W・T・ヤング氏のオーバーブルックファームの自家生産馬であるグラインドストーンは、種牡馬として同ファームに13年間供用されたのちオークハーストに移り、北西部(ワシントン・アイダホ・オレゴンの3州)で供用される初のダービー馬となった。8シーズン供用されたのちに2018年に種牡馬生活を引退し、引き続きそこで暮らしていた。獣医師であるルート氏は訪問客にグラインドストーンを披露することが大好きだった。

 ルート氏の子息、ベン氏はEメールで「グラインドストーンの死により牧場にぽっかりと穴が開いたようです」と述べた。

 「たいへん悲しいことですが、昨夜グラインドストーンが老衰で息を引き取ったことをお知らせします。年齢に勝つことなどできません。残念なことです。今朝、牧場は悲痛な雰囲気に包まれています。この馬を所有できたことは父の生涯における最大の喜びでした」。

 「グラインドストーンは生前、多くのスリルをもたらしてくれました。中でも1996年5月4日にチャーチルダウンズ競馬場で行われたダービーはその極めつけです。レキシントン生まれのヤング氏が自家生産したグラインドストーンは直線半ばで4番手から追い上げ、カヴォニエ(Cavonnier)を鼻差で退け、ダービー史上最も際どい勝負の1つを制したのだ。この勝利により、D・ウェイン・ルーカス調教師はダービー通算4勝のうち3勝目を挙げた。

 ルーカス調教師はこう語った。「ビル・ヤング氏のために勝てたので、おそらく一番気に入っているダービーです。ケンタッキー生まれの生産者が勝つことが究極のダービーだと思います。だからケンタッキー生まれの生産者がこのレースを勝つとき、とても特別な気持ちが沸き上がるのです」。

 しかし残念ながら、グラインドストーンのレースキャリアは膝の故障により突然終わった。ダービー後には一戦もしなかった。

 ヤング氏の長年のアドバイザー、リック・ウォルドマン氏はこう語った。「残念なことです。グラインドストーンは比較的知られていない存在だったのですが、ダービーで勝って名声を得ました。ところがダービーで故障したことで、ふたたびあまり知られない存在になってしまいました。そのため生産者のあいだで支持を広げるのが少し難しくなりましたが、種牡馬としてそれなりの成功は収めました」。

 グラインドストーン(父 1990年ダービー馬アンブライドルド)は三冠競走で活躍できる能力を、2004年ベルモントS(G1)優勝馬バードストーンに伝えた。バードストーンもまた、2009年ダービー馬マインザットバードと2009年ベルモントS優勝馬サマーバードを送り出している。

 グラインドストーンの原点は立派なものだった。ウォルドマン氏とルーカス調教師は、ヤング氏がどういう経緯でフランセス・A・ジェンター財団がケンタッキーダービー博物館のために寄贈したアンブライドルドの1シーズンの種付権利を購入したかを振り返った。ダービー後、ヤング氏はその購入について、同氏を紹介する本誌(ブラッドホース誌)の記事においてこう回想した。

 「但し書きには、価格は3万ドルで保証なしとありました。当時の相場では高いと言う人もいました。私はそのとき、適正な価格だと思っていました。今となっては安かったように思う人もたくさんいるでしょうね」。

 ヤング氏はその種付権利を使って、アンブライドルドのもとにG1馬バズマイベル(父ドローン)を送った。ウォルドマン氏は、バズマイベルの脚が短い一方でアンブライドルドの脚は長かったので、主に身体的な理由に基づいて決められた組合せだったと振り返る。

 ウォルドマン氏はかつて競馬場で、グラインドストーンが何度か身体的な不利に直面する事があったと指摘した。そして、この牡馬が成長できたのはルーカス調教師のおかげだと言った。グラインドストーンは3歳春に全てを出し切り、3月のルイジアナダービー(G3 フェアグラウンズ)を3½馬身差で制し、4月のアーカンソーダービー(G2 オークローンパーク)では大きく外を回らされたもののザーブズマジックの僅差の2着に入った。

 ジェリー・ベイリー騎手はステップレースとケンタッキーダービーの両方で鞍上をつとめた。競馬殿堂入りジョッキーのベイリー騎手は、グラインドストーンとともに15番手から早めに追い上げていって1996年のダービーを制したことで、自身にとってのダービー2勝目を達成した。

 グラインドストーンはダービーで、その年のプリークネススS優勝馬ルイキャトーズ、同厩舎のベルモントS優勝馬エディターズノート、1997年BCクラシック(G1)優勝馬スキップアウェイを破った。

 ルーカス調教師は「かなり素晴らしい馬で、見栄えも良かったです」と述べた。関係者は皆、"いったいどうしてしまったのだろう?"と考えていた。

 ウォルドマン氏はグラインドストーンが2歳のときに受けた骨片摘出手術について触れ、「彼には素晴らしい才能がありましたが、健康に問題がありました。あのような状態からグラインドストーンをダービーで勝てる馬にできるのはウェイン・ルーカスだけです。本当にすごいことです」と語った。

 レースキャリアが突然終わりケンタッキー州で供用されていたグラインドストーンを購買するために、ルート氏は交渉を行った。彼がダービーを観戦したのは1996年だけであり、この馬に一目惚れした。

 ダービー後にオーバーブルックファームのグラインドストーンを訪ねることになったルート氏はこう語った。「ケンタッキーダービーを観戦したのは一度きりで、その日にグラインドストーンが勝ったのです。ヤングさんが亡くなったとき、うちの受付係に"あの馬を売ってもらえないか電話してみよう"と言ったのです。私が完全におかしくなったと彼女は思ったようですね。ウォルドマンさんに電話したら、"すでにオファーを受けているのでそれに勝る条件を出してもらわないと"とおっしゃるのです。それで私たちは彼を手に入れることができたのです」。

 ルート氏は、その夜オレゴンワインを飲みながら獲得を祝ったことを振り返る。そしてグラインドストーンがオレゴン州で供用されていたときに、ポートランドメドウズ競馬場や周辺地域でのステークス優勝馬など、何頭かの優良馬を送り出したと指摘する。

 種牡馬生活を終えたグラインドストーンは、ルーツ氏がダービーの時期にオークハーストで開くパーティーで、訪問客500人~600人を魅了するアンバサダーの役割を果たしていた。彼らは写真を撮ったり、ダービー馬を間近に見たりすることを大いに楽しんでいた。

 グラインドストーンはオークハーストの種牡馬厩舎の横に埋葬される予定である。

 今年は過去のダービーウィナーにとって受難の年である。存命する中で最高齢のダービーウィナーとなっていた31歳のゴーフォージンは3月8日に心不全のためケンタッキーホースパークで死亡した。グラインドストーンはその死まで、最高齢ダービー馬のタイトルを受け継いでいた。現在、最高齢ダービー馬となったのはオールドフレンズにいるシルバーチャーム(28歳)である。

 ウォルドマン氏は、グラインドストーンは長寿を謳歌したと語った。

 「ルート家が彼の最期を看取ってくれて満足しています。彼らは本当にあの馬を大切にしていました。ケンタッキーから離れていく彼を見るのは寂しいことでしたが、大切にしてくれる人々がいる新たな素晴らしい場所に行くことは嬉しいことでした」。

 ルート氏は1996年のダービー馬に関わる幸運に恵まれたことは本当に奇跡だと言った。

 「グラインドストーンは私の人生のハイライトの1つです。馬に関して言えば、まさに私の人生のハイライトでしたね。このうえなく特別な馬でした。ケンタッキーダービー優勝馬というだけでなく、とてつもなく特別な存在でした。彼は自らが冷静であることを分かっていました。落ち着き払って行動し、そのように扱われることを望んでいました。私が知るかぎり、最も賢く素晴らしい1頭でした。この馬とただ一緒に過ごすだけで、何か特別な存在の近くにいることが分かるのです」。

By Frank Angst

[bloodhorse.com 2022年3月23日「Kentucky Derby Winner Grindstone Dies at 29」]


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