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TOPページ > 海外競馬ニュース > 殿堂入りジョッキーのランディ・ロメロ氏が61歳で死去(アメリカ)[その他]
海外競馬ニュース
2019年09月05日  - No.34 - 3

殿堂入りジョッキーのランディ・ロメロ氏が61歳で死去(アメリカ)[その他]


 殿堂入りジョッキーのランディ・ロメロ(Randy Romero)氏(61歳)の数十年にわたる過酷な闘病生活は幕を閉じた。兄ジェラルド氏が伝えるところによると、ルイジアナ州出身のロメロ氏は8月28日真夜中ごろに息を引き取った。

 ロメロ氏は1983年、オークローンパーク競馬場で発生したサウナの爆発により、体の60%に火傷を負い危うく命を失うところだったが、一命を取りとめた。ただしその後、体に生じた様々な障害と闘うことになった。一例を挙げれば、皮膚移植手術を受けているとき、C型肝炎ウイルスに感染している血液が輸血された。ロメロ氏はインタビューで、「輸血は命を救ってくれましたが、そのときに感染したC型肝炎ウイルスは肝臓を深刻に痛めつけました」と語っていた。

 さらに、病の集中砲火がロメロ氏を襲い続けた。2015年には肝臓・腎臓移植候補患者として精密検査を受けたときに胃に腫瘍があることが判明し、2018年には胃がんが見つかった。

 ジェラルド氏は、「人生においてランディほど逞しい人間に会ったことがありません。正直なところ、ランディは今、これまで経験した中で一番安心できる所にいるでしょう」と語った。

 ロメロ氏は10競馬場でリーディングタイトルを21回獲得し、獲得賞金は1985年~1989年だけで3,500万ドル(約36億7,500万円)以上に上った。同氏はその5年間、賞金ランキングで14位内に入り続け、そのうち2年は8位となり、1年は6位となった。通算4,294勝、獲得賞金7,500万ドル(約78億7,500万円)で引退した同氏は、2010年に競馬殿堂入りを果たした。

 ルイジアナ州エラス出身のロメロ氏は1973年に騎手デビューし、すぐに"レーガン・ケイジャン(Ragin Cajun)"というニックネームをつけられた。エラスから車で10分ほどのニューイベリアという町で育った同じく殿堂入りジョッキーのエディー・デラフーセイ(Eddie Delahoussaye)氏は、ロメロ氏の勝鞍を挙げることへの驚くべき熱意をこう振り返った。

 「ランディは若いとき、多くのトラブルに巻き込まれていました。ひどく勝ちたがり、無理を通そうとして、時には失敗しました。もっと成長すると、そのような手は通用しないことに気づいたようです。それでも、これまで出会った中で一番勇気ある騎手でした。何ものも彼を止められませんでした。多くの騎手がそのような態度で臨むのですが、ランディは並外れていました。誰よりも競馬に熱中していました」。

 ロメロ氏のキャリアの大きな転機は、騎乗拠点を南東部・中西部からニューヨークに変えた1980年代半ばである。同氏は当時、チャーチルダウンズとキーンランドで騎乗しながら、頭角を現しつつあったシャグ・マゴーイ(Shug McGaughey)調教師の管理馬にも騎乗していた。同調教師は1985年、ニューヨークに拠点を移してオグデン・フィップス(Ogden Phipps)氏の所有馬をフルタイムで預かることになっていた。ロメロ氏が「私もニューヨークに移ったら支援してくれますか?」と聞いてみたところ、同調教師は頷いた。

 マゴーイ調教師は、「その冬、私たちは彼と一緒にフロリダに行き、そこで素晴らしい結果を出しました。そこから全てが始まりました」と語った。

 1986年、ロメロ氏はパーソナルエンスン(Personal Ensign 父プライベートアカウント)の主戦騎手となった。このコンビは重賞10勝(うちG1・8勝)を果たし、中でも最も記憶に残る勝利は1988年BCディスタフ(G1)で制した接戦である。パーソナルエンスンは、ウィニングカラーズ(Winning Colors)の後ろを走り、最後の直線で心臓がどきどきするような追い上げを見せ、ありえないような鼻差の勝利を決め、無敗を守ったのである。

 マゴーイ調教師は、「素晴らしい騎手です。一風変わったスタイルですが、馬は必死で走ります。彼はスプリンターでもダート長距離馬でも芝長距離馬でも全く問題にせず、どんな馬でも乗りこなせました。子供のころから騎乗していて、どうしたら馬が走るのかを心得ていました」。

 パーソナルエンスンは1988年最優秀古牝馬に選ばれた。ロメロ氏はエクリプス賞を数回受賞したゴーフォーワンド(Go For Wand)にも騎乗し、同馬はG1・7勝を果たしたが、1990年BCディスタフで不幸にも予後不良となった。パーソナルエンスンもゴーフォーワンドも殿堂入りしている。ロメロ氏の他のトップクラスの騎乗馬にはクレームフレッシュ(Crème Fraiche)、ポリッシュネイビー(Polish Navy)、バンシーブリーズ(Banshee Breeze)、ハウスバスター(Housebuster)、ハンセル(Hansel)、シーキングザゴールド(Seeking the Gold)、スキップトライアル(Skip Trial)、ヤンキーアフェア(Yankee Affair)、ジャヴァゴールド(Java Gold)などがいる。

 ただこのような大きな成功のために、ロメロ氏は途方もない代償を払うことになる。

 同氏はオークローン競馬場で大やけどを負ってから14ヵ月後に復帰した。しかし、騎手生活再開の手始めとして騎乗したクォーターホースレース(デルタダウンズ競馬場)で、外側のフェンスに向かって突進する騎乗馬から飛び降りたときに、大腿骨を骨折した。その後、ゴーフォーワンドに振り落とされた時も肋骨を8本骨折し、肩の骨を折った。

 1991年には、ガルフストリームパーク競馬場での芝レースで生じた衝突事故により、同氏は地面に強く打ちつけられ、顎と肘を骨折した。医師は治癒を早めるために肘にスクリューを入れた。ロメロ氏は騎乗を再開したものの、痛みに耐えるために毎日治療薬とジメチルスルホキシド(DMSO)に頼った。同氏は後に、DMSOの使用過多により腎臓がかなり弱ったと述べている。

 2016年にロメロ氏がライターのエディー・ドナリー(Eddie Donnally)元騎手に語ったところによると、1999年に肘の痛みが大やけど以上の痛みとなったので、騎手引退を余儀なくされた。1993年にC型肝炎と診断されてから、腎疾患が徐々に悪化し、2007年には腎臓の1つを摘出しなければならなかった。兄ジェラルド氏によれば、ロメロ氏は約18年間ずっと透析を受けていた。肝臓と腎臓の移植を望んだものの、時間が経つにつれ健康状態が悪化しそのチャンスを逸し続けた。

 ロメロ氏と最後まで連絡を取り続けたデラフーセイ氏によれば、ロメロ氏は長年にわたって苦痛やしばしば襲われる落胆に耐え続け、移植を待ち侘びたが、信念と前向きな姿勢を決して失わなかった。

 デラフーセイ氏はこう語った。「ランディは人生を愛し、決して諦めませんでした。私がこれまで会った中で最も逞しく優しい人間でした。ランディに初めて会った人は、彼がどれほどの苦難に遭ってきたか思いも寄らないでしょう。彼は決して弱音を吐かずいつも前向きでした」。

 ロメロ氏の殿堂入りを受けて本誌(ブラッドホース誌)に掲載された記事において、同氏は数々の苦難にもかかわらず"本当に恵まれていると思う"と述べている。

 同氏はこう記している。「数々のチャンスがやって来ましたが、当然のものとしてとらえたことはありません。私はとてつもなく幸運で、騎手生活を送っているときはずっとそう考えていました。浮き沈みが激しく、何度も立ち止まらなければなりませんでしたが、それだけの価値がありました。苦痛に襲われて朝の調教に行きたくないときも、治療を受けたくないときも、騎手をやめてしまいたくなることもありました。厳しい道のりでした。しかし、競走に戻るべきだ、馬のそばに戻るべきだと考え、そうできるように自分を鼓舞し続けてきました。まわりの優しい人々からの助け、復帰するという強い意志、そして競馬への愛があったからこそ苦難を乗り越えることができました」。

By Eric Mitchell

(1ドル=約105円)

[bloodhorse.com 2019年8月29日「Hall of Fame Jockey Randy Romero Dies at 61」]


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