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2018年03月22日  - No.11 - 2

英ダービー馬ドクターデヴィアスが29歳で死亡(イギリス)[その他]


 1992年英ダービー(G1)優勝馬ドクターデヴィアス(Dr Devious)は、29歳の誕生日を目前にイタリアのサルデーニャの牧場で安らかに息を引き取った。ピーター・チャプル-ハイアム(Peter Chapple-Hyam)調教師は、同馬に対し哀悼の意を表した。

 ドクターデヴィアスは、驚くべき競走生活を過ごした。米国に2回遠征したほか、アイルランド・フランス・日本でも出走し、2年間で通算15戦した。その当時、英愛2000ギニー優勝馬ロドリゴデトリアーノも手掛けて波に乗っていたチャプル-ハイアム調教師は、ドクターデヴィアスのおかげで世界に挑戦することができた。

 米国人ビジネスマンのシドニー・クレイグ(Sidney Craig)氏が所有したドクターデヴィアスについて、チャプル-ハイアム調教師はこう語った。「友人を絶対に比較すべきではありませんが、ドクターデヴィアスは手掛けた中でも素晴らしい馬でした。近くにいるだけで嬉しくなるような馬でした。人に噛みついたり、ましてや蹴ることなどなかったと思います。いずれにせよ、難しい面をまったく見せない馬でした」。

 ドクターデヴィアスは2歳のときにデューハーストS(G1)などを制して6戦4勝し、3歳の早い時期からケンタッキーダービー(G1)を目指すようになった。渡米してロン・マカナリー(Ron McAnally)調教師に預けられ、ケンタッキーダービーに挑戦したが、米国の馬場に馴染めず7着に終わった。しかし元気にイギリスのマントン(馬主ロバート・サングスター氏所有の調教場)に帰ってきたので、チャプル-ハイアム調教師は7月のエクリプスS(G1)ではなく、32日後の英ダービーに出走させたいと考えていた。

 同調教師はこう振り返った。「ドクターデヴィアスの米国から帰国の行程は、ハンブルグの動物園を経由するという困難なものでした。しかし、マントンに戻ったときは元気で、気力がなさそうにしていたのは2日間だけでした」。

 「その当時、ダービーは水曜日に開催されており、その週の始めにドクターデヴィアスとロドリゴデトリアーノにキャンターをさせていました。ドクターデヴィアスはとても順調だったので、レスター(・ピゴット)がロドリゴではなくドクターデヴィアスに乗ろうとしたほどです」。

 リード騎手はこう回想した。「ダービーの少し前まで、ドクターデヴィアスに乗るとは全く思っていませんでした。彼にはダービーの週にマントンで一度乗り、エプソムでキャンターをしただけでした。しかし、マントンでとても順調だったので、騎乗するのがとても楽しみになりました」。

 「ドクターデヴィアスは我々が望む特性をすべて備えていたので、ダービー当日は彼を信じきっていました。スピードもスタミナもあり、競走に向いた馬体を持っていました。それに、持てる力をすべて出そうとする馬でした。私は彼がトラブルに巻き込まれないようにするだけで良いと感じていました。多くの優秀な馬に乗ってきましたが、そのときドクターデヴィアスに乗ってゴール板を先頭で駆け抜けたときの感覚は、決して忘れられません。私にとって特別な馬でした」。

 ドクターデヴィアスは、愛チャンピオンS(G1)においてダービーで負かしたセントジョヴァイト(St Jovite)を再び破った。その後、凱旋門賞(G1)で6着、BCターフ(G1)で4着、ジャパンカップ(G1)でトウカイテイオーの10着となった。そしてG1・3勝を含む通算6勝の成績を残し、獲得賞金81万2,294ポンド(約1億2,184万円)で引退した。

 ドクターデヴィアスが送り出した有名な産駒は、カナディアンインターナショナル(G1)と香港ヴァーズ(G1)を制したコリアーヒル(Collier Hill)と、オペラ賞(G1)優勝馬キンナード(Kinnaird)である。

By Graham Dench

(1ポンド=約150円)

[Racing Post 2018年3月9日「Derby hero Dr Devious dies at stud」]


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