平地と障害で活躍したドゥーマン調教師、闘病のために引退(フランス)[その他]
フランソワ・ドゥーマン(Francois Doumen)調教師は引退を発表した。同調教師は戦後最も優秀な平地・障害兼任調教師の1人であり、世界中を遠征した先駆者だった。
平地では、ジムアンドトニック(Jim And Tonic)が香港とドバイで勝利を挙げたことにより、革新的な調教師とされた。また障害では、とりわけ英国とアイルランドにおいて才能豊かな障害馬バラクーダ(Baracouda)やファーストゴールド(First Gold)などが快挙を達成した。中でも1994年に、ザフェロー(The Fellow)が4回目の挑戦でチェルトナムゴールドカップをフランス調教馬として初めて制したことは、皆の記憶に焼き付いている。
現在77歳のドゥーマン調教師は、昨冬から闘病している。8月10日、シャンティイ郊外のラモルレイの自宅で同調教師はこう語った。「股関節の手術後、朝の調教を見ることがあまりできなくなりました。そのためシーズン開幕時には、馬が仕上がっていませんでした」。
「妻のエリザベットが代わりに調教に立ち会わなければなりませんでしたが、ずっと彼女に指示し続けるのは良くないと考えました」。
「今後有意義に過ごすためにも、これまでどおり調教師生活を続けるために精一杯頑張るか、それとも辞めるか決めなければなりませんでした」。
「治療のために2ヵ月間、毎日クレイユの病院に行かなければなりません。幸いなことに、土日は閉院しています。しかし、働けなくなってすでに2ヵ月が経つので、調教活動を完全に辞めたいと思います」。
ドゥーマン調教師が英国で突破口を開いたのは、1987年キングジョージ6世チェイス(G1 ケンプトン競馬場)に単勝26倍で出走した管理馬ヌプサラ(Nupsala)が、デザートオーキッド(Desert Orchid)を15馬身差に退け、衝撃的な勝利を収めたときである。ドゥーマン調教師はその後この競走を4勝することになる。
「素晴らしい時期でした。ヌプサラがこのレースで優勝した8日後に、ダブルベッド(Double Bed)が米国のG1で優勝しました。その頃は、厩舎は平地競走と障害競走でうまくバランスを取っていました。しかしその後、障害競走に一層重点を置くようになりました」。
「キングジョージ6世チェイスの翌日(12月27日)にヌプサラと厩舎に戻りました。夏服の支度をして、すぐにジェラルド・モッセ(Gerald Mosse)騎手とフロリダのハイアリアパーク競馬場に向かいました。そこでモッセ騎手は21歳の誕生日(1月3日)にG1初優勝を果たしました」。
1990年代には、マルケサ・デ・モラタラ(Marquesa de Moratalla)氏がドゥーマン厩舎に多くの優秀な障害馬を預託し、三銃士とも言えるザフェロー、ユセロ(Ucello)、ユブIII(Ubu III)が活躍した。一方、J・P・マクマナス(JP McManus)氏もドゥーマン厩舎にバラクーダとファーストゴールドを預託し、大成功を収めていた。バラクーダは、ステイヤーズハードル(G1)を2勝し、ファーストゴールドはキングジョージ6世チェイスやパンチェスタウンゴールドカップ(G1)で優勝し、エイントリーボウル(G1)を2勝した。
「マルケサ・デ・モラタラ氏を通じてサー・ピーター・オサリバン(Sir Peter O'Sullevan)と懇意になりました。そして、サー・ピーター・オサリバンを通じて王太后にお目に掛かることができました。この関係は忘れられない思い出を私たちにもたらしました。王太后の馬を管理することは名誉なことでした」。
「また、サー・ピーター・オサリバンを通じてJ・P・マクマナス氏とも知り合うこともできました。私は彼に、オールラロワ(Hors La Loi)とスノードロップ(Snow Drop)を購買するよう提案しました。最初は、「これらの馬を購買するならば、アイルランドの調教師に預託します。あなたの優秀な管理馬を全て取り上げるつもりはありません」と言って断られました。しかしちょうどデ・モラタラ氏がある式典の昼食中にファーストゴールドをマクマナス氏に売却することを決めたので、マクマナス氏は最終的に私の提案も受け入れました。デ・モラタラ氏に手数料をもらえるか尋ねたところ、彼女は『ファーストゴールドと一緒にいられるという保証を差し上げます』と答えました」
ドゥーマン調教師のチェルトナムフェスティバルおよび英国障害競走との長い蜜月関係は、2009年にカスバーブリス(Kasbah Bliss)がワールドハードル(G1)で敗れたときに、終わりを迎えた。
同調教師がアンリ・ド・プラコムタル(Henri de Pracomtal)氏と共同で所有したカスバーブリスは障害から平地に転向し、9歳でカドラン賞(G1)を制した。
同調教師はこう語った。「70歳になったときに、障害競走の調教を諦めました。エリザベットは平地と障害の両方を続けることはできないと言い張りました。とりわけ、英国の障害シーズンは長く、チェルトナムフェスティバルが終わるまでずっと各地に遠征し続けていました。その後すぐに平地シーズンが始まるので、全く休暇が取れませんでした」。
「平地を専門としてから、幸運なことにすぐに成功しました。シユーマ(Siyouma)が英国でサンチャリオットS(G1)を制して、私に勇気を与えてくれました。それからほぼ毎年優れた牝馬を手掛けることができました。エクセレンス(Xcellence)、シーカリジ(Sea Calisi)、そして最後にはエイムトゥプリーズ(Aim To Please)が現れました。私たちはこれから、生産に全力を注ぐつもりです」。
エイムトゥプリーズは昨年9月にベルトランドタラゴン賞(G3 メゾンラフィット競馬場)を制して、ドゥーマン調教師に最後の重賞優勝をもたらした。それは同馬の馬主ヨーク・バシチェック(Jorg Vasicek)氏が亡くなる数週間前のことだった。同氏は長年にわたりドゥーマン厩舎に、ミレニアムロイヤル(Millenium Royal)やトップトリップ(Top Trip)のような優秀な馬を預託していた。
ドゥーマン調教師の調教師生活最後の優勝は、どういった巡り合わせか、50歳のモッセ騎手によりもたらされた。同騎手はドーヴィル競馬場のハンデ戦でキャピタルフライト(Capital Flight)を勝利に導いたのだ。
故郷フランス以外で有名になった"さすらいの精神"を回顧して、ドゥーマン調教師はこう語った。「キャリアの始めから新しい挑戦を追求してきました。何かを一番初めにすることが好きだからです。欧州で初めて香港に行き、ドバイデューティフリーやシンガポールの国際レースを欧州勢として初めて制しました。それこそ私がエキサイティングと感じたことです。おそらくヌプサラにとっても同じだったのではないでしょうか」。
By Scott Burton
[Racing Post 2017年8月11日「I'm off: Doumen calls it a day」]