TOPページ > アジア競馬会議・競馬連盟 > アジア競馬会議50年の歩み > 関係者回顧録4:「アジア競馬連盟(ARF)、国際競馬統括機関連盟(IFHA)における日本中央競馬会(JRA)の国際化対応等の活動」
関係者回顧録4:「アジア競馬連盟(ARF)、国際競馬統括機関連盟(IFHA)における日本中央競馬会(JRA)の国際化対応等の活動」
平成26年5月


今原 照之 初代JRA国際渉外担当総括監

(1999〜2001年 JRA常務理事)
(2001〜2003年 JRA国際渉外担当総括監)

t_imahara.jpg
私は1999年9月から2003年2月まで約3年半、JRAの国際化対応等を担当したので、以下の項目の取り組みについて交渉の経緯等を主体に述べてみたいと思います。

1. ARC(アジア競馬会議)からARF(アジア競馬連盟)になぜなったのか。

2000年3月、第27回シンガポール・マレーシアARCが開催された。この頃のARCの評価は、アジアが発売金で世界の3分の2を占め、アジアの競馬が隆盛の一途をたどっている、そしてARCの参加国もだんだん増えていくという勢いのあるARCであった。会議そのものも、分科会はパネルディスカッション方式を採用し、議論するのにも良い場を提供しているという評価もあって、欧米の人たちも参加するようになっていた。フランスはフランスギャロのルイ・ロマネ(以下敬称略)、英国はピーター・サビル、それからアメリカはハンス・スタールらがいつも顔を出すようになっていた。

第28回タイARCに向けて、2000年3月にドバイで、ARCの執行協議会がもたれた。その時に香港JCの行政総裁のラリー・ウオンが私を朝食会に誘ってくれた。ARCの執行協議会ができたのは1992年。執行協議会の会長は、1992年〜97年までオーストラリアのヴィクトリアレーシングクラブの会長であったデビッド・バークが、そのあと、ムレー・アックリン(ニュージーランド)が務めていた。ウォンから「アジア競馬会議はアジア人でリードしていくような時代にすべきじゃないか」というお話があった。私もそう思うということで、これから香港とタッグを組んで一緒にやっていこうじゃないかということになった。香港が主権をイギリスから返還されたのは1997年。その時の最初の香港JCの行政総裁がウォンであった。香港ジョッキークラブのボードは行政総裁候補として、各界から100人を選び、その100人の中から選ばれたのがウォンでした。人物的には間違いないだろうし、この人と一緒にやっていこうと思った。また、香港JCのボードのアラン・リー会長と3人でお話したときに、やっぱりARCはアジア人の手でということになった。

ARCがARFになる時の動機というのは、アジア競馬が隆盛期を迎え力を付けつつあったことが一つと、それ以外に組織がまとまるためには何かのきっかけがいる。その当時、インターネット違法賭事に対抗するにはどうしたらよいかいう競馬界共通の問題を抱えていた。従来のARCは定期的に競馬の施行者が集まって、問題があればそれを協議し、親睦も図りつつやりましょうという意味合いが強かったが、違法賭事対応など恒常的に仕事をしていく組織がいまや必要ではないかと議論され、「会議」ではなくて「連盟」に衣替えすることが、2001年11月の28回タイARC大会で承認された。

一方、2001年3月に、IFHAの執行協議会が開かれ、同執行協議会にアジアもメンバーに加えようということになった。新しいメンバーは欧州、南北アメリカ、アジアの代表9人で、それぞれ3議決権をもつ構成となった。そこで、アジアの場合、どの国をIFHAの執行協議会に送るか、どういう選び方をするか検討に入った。ARCの執行協議会は同執行協議会に新たに副会長を置くことを決めた。副会長は日本か香港が、そういう話になった。ところがムレー・アックリンは29回ARCはニュージーランドで開催し、この開催をもって会長を辞すると発言し受け入れられた。IFHAへ送るメンバーは副会長職との絡みがあるのでその年末まで香港のEB理事と調整に動いた。結局、ARCに会長と2人の副会長を置くようにしようとなった。2人の副会長は香港(ラリー・ウオン)と日本(今原照之)となり、ニュージーランド、香港、日本そして事務局(豪州)が、IFHAの執行協議会のメンバーとして入った。このようにARFに衣替えして恒常的に仕事をしていこうとなったが同協議会のメンバーは5か国しかいない。5か国の中で会長のほか副会長2人をつくったので協議会のメンバー国を増やすことを考えた。候補はシンガポール、UAEと南ア。ところが、今度はアジア人がリードするARFにしょうという目的があるので、ニュージーランド大会の時にウォンを会長にしなくてはならない。アックリンはそのことを承知しているが、今3か国を入れて会長を選ぶとなると意見調整に手間取ることも考えられるので、メンバー国の増加は先送りとなった。そして、ムレー・アックリンの後継会長は香港のラリー・ウオンがなり、念願のアジア人の会長が誕生した。


2.インターネット違法賭事への対応

(1)IFHAの対応

2000年当時、インターネットを利用したオフショアべッティングあるいはパイレーツとかいろいろな表現があったが、要するにインターネットを使った違法賭事に対してどう向かい合うか大きな問題であった。1999年にIFHAの会議で、アメリカのハンス・スタールが違法賭事対策の必要性を述べていた。翌年の2000年3月の第27回シンガポール・マレーシアARCの時、オフショアベッティングにどう対応するか、ARCの投票分科会等でいろいろと議論がなされた。その当時、オフショアベッティングを扱うところが数百か所も世界にあると言われていた。このオフショアーベィティングに対し、世界の競馬産業が能動的に行動を起こさない限り、競馬産業の未来はない。こういう認識で一致し、その対策をみんなで協力してやっていこうということになった。

同じ3月、IFHAの執行協議会がシンガポールで行われ、その時にWCCC(賭事通信産業対策特別委員会)が設けられ、8か国の委員が決まった。それは、日本、香港、豪州、シンガポール、アメリカ、南アメリカ、英国、フランス。その年の9月(パリ会議)、WCCCで同会議が先に依頼していたデュエリー・バランタイン(アメリカの会社)の調査報告「インターネット時代の競馬産業−問題と好機―」があった。その発表を聞いて、インターネット賭事への具体的対応策を構築する必要性が説かれた。そのために、新しい組織(GRC)と資金も必要だということで、8か国で資金を出し合うことになった。

翌年の2001年11月のタイで、WCCCの実働組織であるGRCは検討の結果をWCCCの会議で述べた。その内容は (1) 各国の競馬統括機関が認めた国際賭事業者に対し信用マークを与えその見返りに発売金の一定額を納付させる (2) 国際間のサイマルキャストを推進し、発売金を国際プールする (3) 管理組織を新設する というものであった。違法賭事をある程度容認しつつ、主催者間の国際協力で力を付けようという構想である。ところが、アジアはこの構想はそれぞれの国の法制によってできるところとできないところがあるので無理だとなった。GRCは1年ほどかけて一生懸命やってきたのに、アジアは全部ダメと言って拒否したものだから頓挫してしまった。そうしたら、ハンス・スタールやルイ・ロマネは怒りをあらわにした。しかし、アジアが言うことをきかなかったというよりも、それぞれの国の競馬の仕組み、発売の仕方などに制約があったから参加できなかったのである。

(2)JRAの対応―主にベットフェア社のベッティングエクスチェンジ

2002年当時、ベットフェア社のベッティングエクスチェンジが大きな問題として競馬主催者の関心を呼んだ。競馬は勝ち馬に賭けるのが常識であるが、ベットフェア社は負け馬に賭けることを可とした。負け馬の賭けを認めれば競馬の公正確保が難しく問題であることは言うまでもない。2002年、この問題に対処するため、JRAは国際ネットギャンブル対応研究会をつくった。海外からのインターネット賭事はクレジット決済が使われるので、農水省等と交渉し、行政指導により日本クレジット協会は海外からの賭事のクレジット決済を行わないことになった。このインタネット違法賭事に対するクレジットでの対応は2003年3月のニュージーランド大会で私から報告した。


3.善隣政策(Good Neighbour Policy)―アジアから発信した違法賭事対策

2001年11月のタイ大会でGRCのプロジェクトが頓挫したことは前に述べた。そのWCCCの会議のあと、その場に残った国は、香港、豪州、シンガポール、日本のアジア4か国で、今後の違法賭事対策について話し合った。ウォンが、GRCの賭事対策では無理だと述べ、世界宝くじ協会では他国に対する賭事の規制があることを披露した。それは、ある国が宝くじを他国で売る時は、その他国での宝くじの販売について管轄権を持つ団体の許可をあらかじめ得なくてはならないというものであった。これを「善隣政策」と呼び、これから暮れにかけて検討することになった。

翌年の2002年4月のQEIIのとき香港に出かけ、「善隣政策」について協議した。相手はウォンとEB理事、こちらは私と須永(香港所長)であった。まず、原案を作らねばならない。世界宝くじに関する知識は日本より香港が詳しいので「あなたのところで原案を作ってほしい」と切り出した。善隣政策の検討は豪州とシンガポールも加えてやるのが本来であるが、4か国が集まるには時間もかかるので、香港と日本で協議して作り上げることになった。

帰国して直ちに、高橋理事長に香港との協議内容を報告した。この報告の中で、理事長に以下のお話を申し上げた。「日本は国際会議に参加しても、いつも向こうの話を聞いて帰って来るだけのことが多い。この善隣政策は違法賭事対策の具体的な取り組みとしてアジアはもちろんIFHAに認知させる必要がある。そこで香港と日本だけで内密に作り上げ、両国間で協定を結んで世に披露し、世界の競馬界の注意を惹き付けるようにしたらどうでしょうか」。理事長は賛同され、早速香港に行かれ、両国で善隣政策にかかわらず、2国間で競馬産業に関する諸問題についてお互いに助け合いながらやりましょうという、確固たる信頼関係が醸成された。

2002年12月、善隣政策が日本・香港2国間協定として調印された後、ルイ・ロマネに会ったとき、彼は怒りましたね。「君は親しい友人だろ。なんでこんな大事な話を僕にしないんだ」と。これは作戦だったから仕方なかったが申し訳ないと思った。一方、ロマネやハンススタールは国際賭事ネットワーク構想(GRC)が頓挫したので次の打つ手が見当たらず困っていた。その時に12月に仕上げた日本と香港の善隣政策の協定について関心を示してきた。そういうこともあり善隣政策が違法賭事対策の一つとして、ARFそしてIFHAで支持されるようなっていったと思っている。


4.日本のパート1国への昇格

私はJRAのレースの国際化に伴う問題解決の交渉相手を誰にするかいろいろ考えた結果、IFHAの会長であるルイ・ロマネとした。2000年9月のパリ会議の時、ロマネと会い、国際競走の充実を図るため、宝塚記念など4つのG1レースとG2の毎日王冠の計5レースについて国際格付けを取得したい旨協力を要請した。ロマネの意見は外国馬の出走枠が5頭しかないのは問題だという。ロマネは要するに国際レースをやるには、外国馬の出走枠が大事で半分は外国枠にしないとだめと主張した。もちろんレースレーティングの話はあるけれども、それ以上に出走枠にこだわった。日本としては「国内事情もあるし、外国からそんなに来ないと思うので5頭位でいいでしょ」と言ったが、外国枠は半分あるという形が大事だと言う。そしてICSC(国際カタロギングスタンダード委員会)の開催まで時間がないことから今年の決定は無理ということであった。ICSCでは本年末のレースレーティングの確定を待って来年6月に再度協議することになった。

ところで日本最初の国際G1は1993年に格上げされたジャパンカップであった。これは日本が頼んだことはなく、ロマネが自ら動きやってくれた。世界のレースを見渡した時に、パート II の国であっても、国際的に重要なレースであるJCは国際G1に相当するというのが彼の見解であった。

一方、レースの国際格付けとは別に、2000年にJRAは第1次国際化計画に続く新たな国際化5か年計画をスタートさせた。この時から第何次国際化計画という呼称は使用しないようにした。なぜかというと、国際化は長期間にわたり競馬関係者と協議しつつ進めていかなくてはならない事項であるため、何次という区切りをつけるのは止めることにした。この計画は5年間に天皇賞(春・秋)、3歳クラシックの計5レースを開放し、外国枠は各2頭というかなり踏み込んだものであった。この外国馬へのレース解放の先には日本はパート1国になる目標があった。2000年3月のICSCでロマネは「日本のグレードレースの2分の1が開放されたら、いつでも日本はパート I になれる。日本がパート I になるのは恐らく自分の引退後であろう。」と述べた。このこともあり、2000年のJRAの新たな国際化5か年計画では時間がかかり過ぎると分かり、パート I 国に昇格するにはどうしたらいいか考えようとなった。

2002年にロマネを通してICSCに日本がパート I 昇格を目指した新たなレース開放計画を出した。その内容は、国内すべてのブラックタイプのレースレィティングを再調査して、新たに開放する競走を決め、外国枠は2分の1とした。そしてレーティングの管理を誠実に行うというものであった。国際競走は本来外国馬の出走に制限はないが、日本は外国枠は2分の1までということにこだわった。その理由は国内生産者や馬主等の反対を意識していたからである。次に、この外国枠2分の1をどうして国内的にクリアしょうかと考えた。生産者への影響を考え、やはり若い年齢(2〜3歳)のレースは後にし、古馬から開けていくことにした。考えてみれば古馬のレースの方が多いので年数をかけ開放しやすい。つまり、古馬次に2〜3歳の若馬の重賞レースの2段階でで開けていった。

ちょっと戻るが、平成5年からの第一次国際化5か年計画の時から生産界も反対して大変だった。その後5か年計画は8か年計画に延長された。生産界の国際化対応には時間かかるし、時代の変化についていくのには時間がかかるからある程度それに沿っていかないといけない。日本はいきなり重賞競走を全部開放することはできなかった。ロマネとドバイで話し合った時、ロマネは国内生産者への対応は大丈夫かと問われた。JRAはしっかりした生産対策を継続中であり生産者の理解を得られる見通しだと答えた。ロマネは頑固者の印象だったが、日本の話をよく聞いてくれた。だから、いつも彼と会議の前に必ず時間をもらって話し合った。そしたらある時に、「私はよく考えてみたらJRAの弁護士みたいだけど、弁護士料は請求しないから」と言って微笑んだ。彼は得がたい交渉相手であったので忘れられない。

最後になったが、このように海外で仕事ができたのは約3年半に亘り通訳を担当してくれた秋谷光昭君の支えがあったからで感謝している。

今原 照之 (いまはら てるゆき)

昭和16年(1941)2月12日生まれ。昭和38年(1963)日本中央競馬会入会。栗東トレーニング・センター公正室長、審判部長、東京競馬場長、日本中央競馬会理事、日本中央競馬会審査会事務局長、日本中央競馬会常務理事を経て、平成13年(2001)初代JRA国際渉外担当総括監に就任。


>> TOPに戻る



上に戻る