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TOPページ > 海外競馬情報 > サンデーサイレンスとイージーゴアの壮烈なライバル関係(アメリカ)【その他】
海外競馬情報
2014年03月20日  - No.3 - 4

サンデーサイレンスとイージーゴアの壮烈なライバル関係(アメリカ)【その他】


 25年前に米国競馬の最高の舞台で繰り広げられたイージーゴア(Easy Goer)とサンデーサイレンスの壮烈な叩き合いの接戦は、稀に見る素晴らしいものだった。

 東海岸と西海岸、王子と乞食のような対立関係から、シービスケット(Seabiscuit)対ウォーアドミラル(War Admiral)を想起させ、米国競馬界を夢中にさせた。この偉大な2頭は3歳時に三冠レースとBCクラシック(G1)の計4レースで対戦し、いずれも1着と2着になった。私たちが話しているのは、ブリガディアジェラード(Brigadier Gerard)とミルリーフ(Mill Reef)が1971年の間ずっと競い続けているようなレベルの話である。

 1989年ケンタッキーダービー以前に、イージーゴアの出走レースのほとんどはニューヨーク州であった。一方、サンデーサイレンスはカリフォルニア州を出たことがなかった。サンデーサイレンスを管理したのは伝説的なトレーナーのチャーリー・ウィッティンガム(Charlie Whittingham)調教師で、その当時、イージーゴアを管理したケンタッキー出身のシャグ・マゴーヒー(Shug McGaughey)調教師のちょうど倍の76歳であった。どちらか一方が存在しなければ、いずれも逸話に富んだ三冠馬となり、競馬界一の英雄となったことは確かだろう。その代り、この2頭の名前は永遠に結びつき、競馬界を美しく飾るこれまでで最も名高いライバル関係の主役として思い出されるだろう。

 オグデン・フィップス(Ogden Phipps)氏の自家生産馬ということで東海岸競馬界の君主同然のイージーゴアは、フィップス馬帝国の子孫として威風堂々と生産され、父アリダー(Alydar)の威厳とカリスマ性を備えた御曹司であった。

 それに引きかえ、その宿敵は誰も欲しがらないカリフォルニアのとんでもないチビ馬であった。生産者アーサー・ハンコック3世(Arthur Hancock III)はサンデーサイレンスを2度売却しようとしたが失敗した。イージーゴアが馬の世界の貴族であれば、サンデーサイレンスは労働階級の英雄である。見た目でも2頭は全くかけ離れていた。イージーゴアはがっしりした栗毛だが、ほっそりしたサンデーサイレンスは黒鹿毛とされていたが青毛に近かった。

 やはりイージーゴアは、セクレタリアト(Secretariat)の生まれ変わりと言われ高い期待を背負っていただけのことはある。同馬は重馬場のチャーチルダウンズ競馬場で施行されたBCジュヴェナイル(G1)を惜しくも勝ち損ねたが、1988年の最優秀2歳馬に選ばれた。BCジュヴェナイルでイージーゴアを負かしたイズイットトゥルー(Is It True)は、カウディンSやシャンペインSなど過去3回の対戦でイージーゴアが負かしていた相手だった。

 このBCジュヴェナイルでの逆転は、イージーゴアがその後3歳シーズンで簡単に3連勝を挙げた時点で、偶然だと考えられた。東海岸の伝統的なダービーのトライアルレースを勝ち進んだ後、イージーゴアはガルフストリームパーク競馬場のスウェールSを9馬身近い着差で制し、アケダクト競馬場のゴッサムS(G3)を呆然とさせられるほどの13馬身差で制し1600mのコースレコードを打ち立てた。その後、クラシック競走の最終ステップレースであるウッドメモリアルS(当時G2)も楽勝した。

 その間、サンデーサイレンスが見出しを飾ったのは数回で、威厳あるライバルと比べて、脚も曲がり気味(X状肢勢)で平凡な血統で見栄えのしない馬格の同馬は、何においても順風満帆ではなかった。

 当歳のときに致死性腸内ウィルスを克服したヘイロー(Halo)産駒のサンデーサイレンスは、1987年キーンランド1歳セールで1万7,000ドル(約170万円)の価格しか付かず、2歳時に再びカリフォルニア州のセリに上場されたときもアーサー・ハンコック氏により買い戻されることになった。そしてケンタッキーへの帰路で、運転手が心臓発作を起こして馬運車がテキサスの路上で横転し、またもや生死の境をさまよった。

 ハンコック氏がウィッティンガム調教師にサンデーサイレンスの所有権の半分を購買するように説得し(その半分はケンタッキー州ルイビルの高齢の外科医アーネスト・ゲイラード(Ernest Gaillard)氏に売却される)、同馬はカリフォルニア州を拠点とし将来を築くことになる。3人の共同馬主はHGWパートナーズ(H-G-W Partners)として、同馬を出走させた。


行く着くところまで行く馬

 サンタアニタ競馬場に送られ、この強情な牡駒には気性が激しいという評判があったが、伝説的なトレーナー“白頭ワシ”ウィッティンガム調教師は、サンデーサイレンスは癇癪持ちだが才能に恵まれていることを認めた。同調教師は同馬をじっくり調教し、1988年10月にやっとデビューさせたが、クビ差で敗れた。しかし2戦目を10馬身差で制し上位グループに上がり、その後3歳シーズンを開始して頭角を現すことになる。イージーゴアが3歳緒戦のスウェールSを勝った2日前に、サンデーサイレンスはサンタアニタ競馬場のアローワンスを制した。その後サンフィリペS(G2)を制し、サンタアニタダービー(G1)を11馬身差で優勝した。「痩せこけた十代の若者が大きくて逞しいスポーツ選手になることがあるように、少し成熟が遅れる馬もいます」とハンコック氏は説明した。

 それはもっともだが、季節外れの寒さのチャーチルダウンズ競馬場にはケンタッキーダービーのために12万2,653人の観客が集まり、オッズ4-5(1.8倍)の一番人気で送り出されたのはイージーゴアであった。同馬は同厩馬オウインスパイアリング(Awe Inspiring)と一緒に出走した。醜いあひるの子サンデーサイレンスは人気者をまさに出し抜こうとしており、最後の直線を疾走し、パット・ヴァレンズエラ(Pat Valenzuela)騎手の鞭から逃げるようにゴールまでジグザグ走って、2馬身差の勝利を収めた。4年前の1986年にファーディナンド(Ferdinand)でケンタッキーダービーを制していたウィッティンガム調教師は、「私は困難に打ち勝つ馬が好きです」と述べた。

 イージーゴアは序盤で他馬にプレッシャーを掛けられ、不良馬場にも手こずり、パット・デイ(Pat Day)騎手を背に精彩を欠き動くのが遅すぎた。マゴーヒー調教師は、「イージーゴアはただ不良馬場に適応できず、2つ目のギアが入りませんでした。格でも素質でも2番手の馬となってしまいました」と語った。

 ウィッティンガム調教師はサンデーサイレンスの将来の見込みについて、いつになく楽観的であった。「行き着くところまで行く馬です。サンデーサイレンスの次の目標は三冠馬です。彼が三冠馬になるということをちゃんと書き留めて下さいね」。

 舞台は第2ステージとなる2週間後のピムリコ競馬場のプリークネスSに移る。両馬とも前の戦いで傷を負い、サンデーサイレンスは軽い挫石を患い、イージーゴアは常に心配の種とされた球節の腫れがあった。けれども、三冠競走の2戦目が施行されたとき、このくたくたに疲れる接戦が、競馬史上最も素晴らしい最後の直線での叩き合いとして長く語り伝えられることになろうとは思いもよらなかった。

 再び1番人気となったイージーゴアはスタートでダッシュがつかず、今回は前に行くと決意していたパット・デイ騎手に向正面で早めに動くように促された。半マイルの地点で2馬身ほど先行していたが、ゴールまでまだ程遠い4コーナーでサンデーサイレンスと並び、この時2頭は競馬史で最速のマイル走破タイムを出した。

 この最後の直線の接戦で、両馬は全く馬体を併せて離れず、デイ騎手は手綱をわずかに右に引き、イージーゴアをライバルと睨み合わせた。サンデーサイレンスが気力と決断力次第の馬であったとすれば、おそらくこれは賢明な動作ではなかっただろう。イージーゴアは、内埒沿いで少しだけ先行していたが、ヴァレンズエラ騎手がライバルにもたれ掛かるサンデーサイレンスに最大の力を注ぎ、ダービー馬が鼻差で再び勝利を収めた。

デイ騎手の異議申立てにかかわらず競走結果は変わらず、同騎手は向正面での早く動いたことについて自身を責め、「完全に騎乗ミスでした。イージーゴアを向正面で落ち着かせていたなら、最後の直線で自分らしい走りをしたことに疑いの余地はありません」と語った。

当然ながらハンコック氏は大喜びし、数年後にスポーツ専門チャンネルESPNに対し、「普通イージーゴアがサンデーサイレンスをこのように置き去りにするのを見れば、全ておしまいだと思うでしょう。だから5秒後に顔を上げて、サンデーサイレンスが最後の直線で追い上げて勝利を決めたのを目にしたとき、まったく唖然としました。恐るべき馬です」と語った。


サンデーサイレンスなど見たくもなかった

 サンデーサイレンスはベルモントSにおいて競馬史上不朽の名声を獲得するのに王手をかけていた。イージーゴアがホームグラウンドとするニューヨークのベルモントパーク競馬場での開催で地の利があり、ライバルよりも適性があると思われる競走距離2400mも有利だろうと見られていたにもかかわらず、最終的に一番人気となったのはサンデーサイレンスであった。「アファームド(Affirmed)とアリダーの対戦と重ねる発言を多く耳にすることになるでしょう」とマゴーヒー調教師は述べ、「三冠挑戦馬がいれば、それを阻止しようとする馬もいるわけです」と付け足した。

 完全に一方的に終わってしまったこのレースにおいて、大声で叫んだのはむしろ地元ニューヨークのファンであった。これはまったく“チャンピオンの試金石”であり、イージーゴアは4コーナーでライバルを引き離し、1973年のセクレタリアトの歴史的な大勝以来最も速いタイムで8馬身差の勝利という偉業を成し遂げ、サンデーサイレンスを完膚なきまでに負かした。

 マゴーヒー調教師は、「イージーゴアがこのように走ってくれると確信していました。私の予想通りの展開となれば、レースはワクワクするものになるだろうと思っていました。イージーゴアならサンデーサイレンスを倒すと信じていました。彼の能力や施した調教に疑いを持ったことはありませんでした」と語った。

 プリークネスSで責任を感じていたパット・デイ騎手は、ホッとしていた。「プリークネスSは歴史的な接戦で、私たちはそこから教訓を得ました。サンデーサイレンスなど見たくもありませんでした。プリークネスSの400m地点で彼を見て、まんまと負かされました。私はただ前に進みたいと思い、彼を引き離し、自分のすべきことに集中しました」。

 ウィッティンガム調教師は三冠を取り損ねたが、落胆した様子ではなかった。「私たちは喜んで跳ね回りもしなければ、泣くわけでもありません。骨の折れるレースでした。ベルモントSはいつもこうです。三冠を取れる馬はほとんどいません。私たちは何の言い訳もしません。3つの骨の折れるレースを戦ったのですから、カリフォルニアに戻り一息入れさせたいと思います。彼はこれからも多くのレースを走ります」。

 その後、サンデーサイレンスは11月にBCクラシックに出走するためにガルフストリームパーク競馬場にやって来た。しかし、夏にホイットニーS(G1)、トラヴァースS(G1)、ウッドウォードS(G1)およびジョッキークラブゴールドカップ(G1)を大差で優勝したイージーゴアの2番手を再び演じるつもりはなかった。これらの大差の勝利のうち3レースにおいてイージーゴアは古馬を負かしていたが、サンデーサイレンスはルイジアナ州で格下の馬を相手に勝利を収めたに過ぎなかった。

 またサンデーサイレンスはハリウッドパーク競馬場のスワップスS(G2)でプライズド(Prized)に負かされていた。そのプライズドはジョッキークラブゴールドカップでイージーゴアに20馬身差をつけられ敗退していた。このことは、サンデーサイレンスが2勝1敗で対戦成績で上回っていたにもかかわらず、イージーゴアがBCクラシックで一番人気に推される理由となった。

 レース展開は明快であった。ヴァレンズエラ騎手は騎乗できず(コカイン使用のために騎乗停止)、クリス・マッキャロン(Chris McCarron)騎手がサンデーサイレンスに騎乗し先行馬の5馬身後ろでレースを進め、イージーゴアはさらに6馬身後ろにおり、その後デイ騎手が差を詰めるために中盤で追い上げるよう促した。しかしサンデーサイレンスはイージーゴアを引き離すため4コーナーで仕掛け、イージーゴアは最後の直線で大きな遅れを取り、追い上げることしかできなかった。ゴール地点であと少しのところに迫ったもののほんのクビ差で敗れた。

 この2頭はその後対戦することは二度となかったが、サンデーサイレンスがエクリプス賞で242票中223票を獲得し年度代表馬に選ばれた後でさえ、それぞれの長所についての議論は絶えなかった。ニューヨークタイムズ紙のジャーナリストであるスティーヴン・クリスト(Steven Crist)氏は常に声高にイージーゴアを応援していたが、「この選定に疑問があるとすればサンデーサイレンスとイージーゴアのどちらが優れた馬かを決める投票で、19人より多くの人がサンデーサイレンスに反対の投票をしただろうということである」と言わずにいられなかった。

 両馬は4歳シーズンの途中に引退することになるが、いずれもその経歴にG1勝利をもう1つ加えた。イージーゴアはサバーバンH(G1)で重い負担重量にもかかわらずその才能をいかんなく発揮し優秀なライバルを負かして競走生活を終えた。通算20戦で3着を下回ったことはなく、2馬身1/2差以上付けられたこともなかった。

 かたや4歳時に靭帯損傷で引退を余儀なくされるまで2回出走したサンデーサイレンスは通算14戦で2着を下回ったことはなかった。その上、引退後においてもイージーゴアよりも恵まれていた。種牡馬としても米国の有力生産者から遠ざけられ、同馬は日本で伝説の種牡馬となる運命を辿り、1995年から2007年までリーディングサイアーとして君臨する。

 おまけに、サンデーサイレンスはイージーゴアよりも1年早く殿堂入りを果たし、この点においてもライバルを出し抜いた。さらにサンデーサイレンスは2000年に発表されたブラッドホース誌の『20世紀の競走馬トップ10』で34位のイージーゴアをわずか上回る31位となった。

 この2頭の偉大な競走馬が一緒に取り上げられるのは、ある意味で全く妥当である。いずれにしても、これまで誰もいずれかの1頭について話す際にもう1頭に言及せず話せたことはない。
 

身を持って知ったサンデーサイレンスの荒っぽさ

 イージーゴアとサンデーサイレンスは、ケンタッキー州の馬産地で2人の兄弟が運営するたった8マイルしか離れていない牧場で、4日差で生まれた。 

 イージーゴアは1986年3月21日にセス・ハンコック(Seth Hancock)氏のクレイボーン牧場で生まれ、その4日後に兄アーサー・ハンコック氏のストーン牧場でサンデーサイレンスは生まれた。どんちゃん騒ぎすることで有名だったアーサーが父親のブル・ハンコック(“Bull”Hancock)氏からクレイボーン牧場を託されなかったことは有名であり、このことは2頭のライバル関係にさらに面白みを与える。 

 若馬サンデーサイレンスは手に負えない気難しい馬で、偉大なウィリー・シューメイカー(Willie Shoemaker)元騎手でさえもそう感じた。サンデーサイレンスのデビュー前、現役を引退して1年が経ちすでに57歳となっていたシューメイカー氏は同馬の調教に騎乗したが、人馬に危険を及ぼすという評判のままであることを知り不快な思いをしたという。 

 ジェイ・ホヴデイ(Jay Hovdey)氏が執筆したウィッティンガム調教師の伝記によれば、シューメイカー元騎手は「半分壊れたろくでなしの馬に再び乗せないでくれ」と同調教師に激怒した。 

 「少し老いぼれたのではないか?君は怖いもの知らずではなかったのか?」と“白頭ワシ”ウィッティンガム調教師は答えた。このニックネームは第二次世界大戦で太平洋艦隊の海兵であったときに、マラリアの発作のせいで年齢不相応に髪が抜け落ちてしまったことから付けられた。 

 けれどもウィッティンガム調教師がサンデーサイレンスの厄介な行動を免れたわけではない。サンデーサイレンスはベルモントSに向けての調教のときに何かにおびえ、76歳の同調教師を蹴り、右のこめかみの少し上に当たった。だが幸運なことに表面の切り傷で済んだ。1999年4月に亡くなったウィッティンガム調教師は、「私の頭を蹴ってサンデーサイレンスが肢を傷めでもしたら大変だと思いました」と冗談を言っていた。
 

  

一言で言えば“ライバル関係”

3歳のスター馬2頭のクラシック競走での一連の対戦は、アファームドとアリダーのライバル関係に共通しており、米国ダート競馬の最大の舞台における、“東海岸対西海岸”、“王子対乞食”の激戦であった。 

1989年の4つの壮大な対戦

1.ケンタッキーダービー

サンデーサイレンスは1番人気のイージーゴアを破り競馬界をあっと言わせる。

2.プリークネスS

壮絶な直線の叩き合いの末、サンデーサイレンスがイージーゴアを差す。

3.ベルモントS

イージーゴアがついに8馬身差でサンデーサイレンスを破る。

4.BCクラシック

サンデーサイレンスが後手を踏んだライバルに勝ち、最終的にこの対戦は3勝1敗となる。 

 

有名な言葉

「サンデーサイレンスは年度代表馬だが、まだ多くの人々がイージーゴアのほうが優れた馬だと信じている」。ニュースデイ記者ポール・モラン(Paul Moran) 

「彼らはサンデーサイレンスの毛色さえも知らないだろう」。メディアのサンデーサイレンスへの明らかな敬意の欠如に苛立ったウィッティンガム調教師の発言。 

2頭のその後

両馬とも種牡馬入りする前に4歳シーズンでわずかに出走したに過ぎない。 

・イージーゴアは球節の故障で、生まれ故郷のクレイボーン牧場への種牡馬入りを余儀なくされた。以前ボールドルーラー(Bold Ruler)やセクレタリアトが繋養されていた1番馬房をあてがわれ、致命的なアレルギー反応を起こして8歳で死ぬまで3頭のG1馬を送り出した。

・サンデーサイレンスは靭帯損傷で引退する前に4歳シーズンはたった2戦しかしなかった。同馬は日本の伝説の種牡馬となる運命を辿り2002年8月に死ぬまで一時代を築いた。

 

追体験するには・・・

ユーチューブ(YouTube)上のESPNのクラシック競走ドキュメンタリーシリーズ“1989年ランフォーザクラウン(run for the crown 1989)”の“イージーゴアとサンデーサイレンス(Easy Goer and Sunday Silence)”ですべての対戦を観ることができる。
 


By Nicholas Godfrey

[Racing Post 2014年1月29日「East and west prince and pauper in the classic American duel」]


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