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TOPページ > 海外競馬情報 > ヴィンセント・オブライエン調教師の死去に哀悼の声(アイルランド)【その他】
海外競馬情報
2009年07月03日  - No.13 - 5

ヴィンセント・オブライエン調教師の死去に哀悼の声(アイルランド)【その他】


 6月1日にキルデア州スタファン村の自宅で、穏やかに92歳の天寿を全うしたヴィンセント・オブライエン(Vincent O’Brien)元調教師は、世界の競馬史上で最も偉大な人物の1人である。

 6月1日昼に訃報が流れ、アイルランドのマーティン・カレン(Martin Cullen)スポーツ大臣やドバイの首長モハメド殿下(Sheikh Mohammed bin Rashid al Maktoum)など、競馬界の重鎮たちから弔意が多数寄せられた。

 ネイス競馬場およびリストウェル競馬場の祝日開催において、1分間の黙祷が捧げられた。

 カレン大臣は、「オブライエン調教師は長年アイルランド競馬に深く関与し、多大な貢献をすると同時に、偉大な遺産を残しました」と述べた。

 オブライエン調教師とその妻ジャクリーヌはここ数年、息子のデヴィッドとその家族のいる西オーストラリアのパースで冬を過ごしていた。

 同調教師は健康悪化により、5月末にKクラブという名称で有名なキルデア・カントリー・クラブのあるスタファン村に帰っていた。その後、彼は妻と5人の子供デヴィッド、チャールズ、エリザベス、スーザンおよびジェーン、そして孫と義理の息子と娘に看取られて亡くなった。

 英国クラシック16勝のうちダービーで6勝をあげたオブライエン調教師は、くしくもダービー週間が始まった日に亡くなった。それは、同調教師の英国ダー ビーでの勝馬、ラークスパー(Larkspur)、サーアイヴァー(Sir Ivor)、3冠馬ニジンスキー(Nijinsky)、ロベルト(Roberto)、ザミンストレル(The Minstrel)およびゴールデンフリース(Golden Fleece)による勝利の記憶を呼び起こすものであった。

 また同調教師は、27頭のアイルランドのクラシック競走勝馬を含む44頭のクラシック競走勝馬を送り出し、1958年にバリモス (Ballymoss)、1977年と1978年にアレッジド(Alleged)で凱旋門賞(G1)を3度制し、ロイヤルアスコット開催では25頭の勝馬 を輩出し、1975年には7頭を出走させそのうち6頭が優勝した。

 オブライエン調教師は、障害競走と平地競走の双方で数々の成功を遂げ、比類のない調教師となった。その経歴の概略は次のとおりである。

 同調教師は当初、コーク州チャーチタウンで家族経営の牧場において調教師をしていた父親の後を継ぎ、1943年に調教師免許を取得し、10年も経たない うちに障害競走の調教師として名を成した。すなわち、ゴールドカップを3年連続(1948年〜1950年)で制したコテージレイク(Cottage Rake)をチェルトナムフェスティバルに送り込み、英国の競馬界に衝撃を与え始めた。なお、同調教師は1953年にノックハード(Knock Hard)で同競走を制した。チャンピオンハードルにおいてもハットンズグレイス(Hatton’s Grace)で3連勝を果たしている。

 グランドナショナル3年連続制覇こそ、同調教師の障害競走分野での無類の功績であり、最大の快挙であると言えよう。すなわち、1953年のアーリーミス ト(Early Mist)、1954年のロイヤルタン(Royal Tan)、および1955年のクウェアタイムズ(Quare Times)による勝利である。

 その後、平地競走の調教師としても頭角を現し、コンビを組んだレスター・ピゴット(Lester Piggott)騎手とともに多くのレースに優勝し注目を浴びた。彼らにとって晩年ともいえる1990年にニューヨークで開催されたBCマイルでは、長い 空白期間を経てコンビを再結成し、夢のような勝利を挙げた。ピゴット氏は、6月1日、オブライエン調教師の死に弔意を示し、多大なる敬意を表した。

 ピゴット氏は、「オブライエン調教師は、コンビを組んだ他の騎手にとっても最高の調教師でした。彼が最も偉大な調教師であったことに議論の余地はありません」と述べた。

 1951年にオブライエン調教師は調教事業の拠点を、ティペラリー州ローズグリーン村の近くのバリードイル(Ballydoyle)と呼ばれる場所に移した。

 同調教師は、世界的に有名なこの調教施設を建設した後、6頭のダービー馬を輩出した。同調教師が1994年に引退した後、血縁関係のないエイダン・オブ ライエン(Aidan O’Brien)調教師がこの由緒ある調教施設を承継した。エイダン・オブライエン調教師は6月1日、次のように語った。「本日ヴィンセント・オブライエ ン調教師が逝去されたのは悲痛の極みです。競馬界の多くの関係者と同様に、彼は私の子供時代からのヒーローでした。私と妻のアンヌ=マリーが彼の設立した バリードイル調教施設を受け継げたことを名誉に思います」。

 「彼は調教場とギャロップ走路の改善に精力的に取り組み、私たちは今日、彼の半世紀にわたる献身的な努力から恩恵を受けています。彼が作り上げた調教施 設とギャロップ用走路がなければ、私たちの成功は叶わなかったでしょう。世界中どこを探しても比肩する施設はありません」。

 「私は毎朝、調教場の中を歩いていると、ニジンスキー、サーアイヴァー、サドラーズウェルズ(Sadler’s Wells)のような名馬を輩出したこの調教施設の歴史をひしひしと感じます。彼は最高水準の競馬を目指してたゆまぬ努力をしました。その足跡を辿ると身 が引き締まる思いに駆られます」。

 サドラーズウェルズは素晴らしい競走馬であり、1984年の愛国2000ギニー、エクリプスSおよびアイリッシュチャンピオンSを制した。しかし同馬の 功績で最も重要なことは、種牡馬としての長年にわたる大成功で、世界の舞台にクールモア牧場が覇を唱えることができたことである。その礎になったのは、 1970年代にオブライエン調教師、その義理の息子ジョン・マグニア(John Magnier)氏および馬主のロバート・サングスター(Robert Sangster)氏が打ち出した方針である。それは、種牡馬をシンジケートで所有することを究極の目標とし、トップクラスのレースを目指して調教を施す ための1歳馬を米国から購入することであった。

 オブライエン調教師のキーンランドへの馬購買旅行は、多くの語り草を残した。なかでも、3冠馬ニジンスキーの産駒で後にシアトルダン サー(Seattle Dancer)と名付けられる1歳馬を、1985年に史上最高額の1310万ドル(約13億1000万円)で購買したのはその最たるものであった。

 実娘のスー・マグニア氏は父を称えて次のように語った。「父の競馬のキャリア自体が雄弁に語っており、詳細な説明は必要ありません。父はまれな人でした」。

 「バリードイル勢(クールモア牧場+オブライエン厩舎)は、彼の構想力の成果であり、成功の証しなのです。より重要なことは、彼が父、祖父、曽祖父とし て愛され、しかも類まれな相談相手だったことです。父が逝ってしまったことは私と家族に大きな喪失感を与えました。皆本当に寂しくなるでしょう」。

 オブライエン調教師の驚異的な調教実績は、1994年9月にカラー競馬場でミステリアスウェイズ(Mysterious Ways)であげた勝利で幕を閉じた。同調教師の引退はその1ヵ月後に発表された。

 競馬ファンの人気は、引退の9年後の2003年(初めてのダービー優勝の41年後にあたる)に、本紙の読者アンケートにおいて競馬界の偉人のトップに選ばれるほどのものであった(2位はレスター・ピゴット元騎手、3位はモハメド殿下)。

 オブライエン調教師の遺体は6月3日午後6時に、キルデア州ニューブリッジのコンレス教会に運ばれ、葬儀は翌日午後のミサの後に行われる。

 

競馬界の偉人 トップ20(2003年レーシングポスト読者投票)
1 ヴィンセント・オブライエン 平地/障害競走調教師(1917-2009)
2 レスター・ピゴット 平地競走騎手(1935-)
3 モハメド殿下 オーナーブリーダー(1949-)
4 トニー・マッコイ 障害競走騎手(1974-)
5 フレッド・アーチャー 平地競走騎手(1857-1886)
6 マーティン・パイプ 障害競走調教師(1945-)
7 ゴードン・リチャーズ卿 平地競走騎手(1904-1986)
8 ヘンリー・ルース提督 ハンデキャッパー(1795-1877)
9 フレッド・ウィンター 障害競走騎手/調教師(1926-2004)
10 エリザベス皇太后 オーナーブリーダー(1900-2002)
11 フィル・ブル 出版者/賭事者/馬主/生産者(1910-1989)
12 フランキー・デットーリ 平地競走騎手(1970-)
13 エイダン・オブライエン 平地競走調教師(1969-)
14 ヘンリー・セシル 平地競走調教師(1943-)
15 ノエル・マーレス 平地競走調教師(1910-1987)
16 ピーター・オサリバン卿 解説者(1918-)
17 マイケル・ディキンソン 障害競走調教師(1950-)
18 ジョージ・ベンティンク卿 競馬改革者(1802-1848)
19 ジョン・フランコム 障害競走騎手(1952-)
20 パット・エデリー 平地競走騎手(1952-)

By Tony O’Hehir


[Racing Post 2009年6月2日「‘He was the greatest, no argument’ says Piggott」]


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