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TOPページ > 海外競馬情報 > ルイ・ロマネ氏の最後の凱旋門賞(フランス)【その他】
海外競馬情報
2007年11月16日  - No.22 - 4

ルイ・ロマネ氏の最後の凱旋門賞(フランス)【その他】


競馬に従事する一家

 競馬統轄機関におけるロマネ家の物語は、私たち一族がフランス競馬の運営に携わった期間が異例に長いことから始まります、とルイ・ロマネ(Louis Romanet)氏は語り始めた。大叔父モーリス(Maurice)は4人の親族に続いて、1907年4月に競馬統轄機関に就職しました。一族は108年間競馬統轄機関に勤めていることになります。

 他の注目すべき事柄は、大叔父モーリス、祖父ルネ(René)、父ジャン(Jean)はその経歴を公務員から始めたことです。彼らは競馬統轄機関に従事する前に、公務に従事しており、このことは一族の特徴をなしている事柄だと思います。

 祖父ルネは、馬主で生産者であるマルセル・ブーサック(Marcel Boussac)氏の持ち馬の交配計画の助言者であり、祖父の死後は、父ジャンがその仕事を引き継ぎました。1950年代に父はブーサック氏と一緒に英文雑誌『競馬と生産(Racing and Breeding)』を創刊し、その後は仏文雑誌『競馬と生産(Courses et Elevage)』の発行に協力しました。

 競馬の国際化もロマネ家の共通理念の1つです。祖父ルネは国際的な指導者会議を立ち上げることから着手しました。マルセル・ブーサック氏は、奨励協会(平地競走の統轄機関)の会長ではなかったのですが、1949年の凱旋門賞前夜晩餐会の発足に重要な役割を果たしました。また、ブーサック氏は、凱旋門賞をヨーロッパ最高の賞金額とし、最良馬をひきつけるレースとするために、国営競馬くじの施行に貢献しました。

 大きな転機は1967年、父ジャンが凱旋門賞の翌日に行われる国際競馬統轄機関会議(Conférence internationale des autorités hippiques: パリ会議)を創設し、自ら議長となったことです。

 私が奨励協会に就職したころは、グループ競走の創設が検討された時期で、さかんに出張しました。私の任務は、フランス競馬を格付けすること、イギリス、アイルランドさらにドイツ、イタリアと交渉して、定着した競走体系を作ることでした。このことにより、私は国際競走を格付けする委員会の国際的指導者となりました。1993年、父が亡くなった年に、私たちは国際競馬統轄機関連盟(Fédération Internationale des Autorités Hippiques)を創立し、私は1994年3月に理事長に就任しました。5度改選され、2009年10月に現在の任期を終えます。ジャン=リュック・ラガルデール(Jean-Luc Lagardère)氏は、私がレジオンドヌール勲章(Légion d’honneur)を授与された日にこう言いました。「ロマネ家は世界競馬機関の終身会長となる偉業を成し遂げました。確かに、世界ではラガルデールの名前よりもロマネの名前のほうがよく知られています」。この言葉に私は感動しました。


ロマネ家の活動の歴史

1966年:ロンシャン競馬場の近代化

 マルセル・ブーサック氏は1960年、奨励協会の会長に選出されました。ジョッキークラブ(Jockey Club)のメンバーでない者が初めてこの地位に選ばれたのですから重大な出来事です。同氏は父ジャンを招き、理事長のポストを作り就任させました。彼らはまず、ロンシャン競馬場の再建を決定しました。

 その当時は発展期でした。3連勝馬券が躍進し、競馬に思いがけない収入をもたらしました。競馬は社会現象となりました。金庫はいっぱいになり、国は控除率を上げ続けました。

 そしてその利益をロンシャン競馬場の近代化に注ぎ込みました。工事は、1962年から1969年にわたり、既存のスタンドの横に新しいスタンドを建て移動するという革命的な構想のもと行われました。その結果、シーバード(Sea Bird)が優勝した凱旋門賞は古いスタンドで開催され、翌年の1966年4月にロンシャン競馬場の新スタンドがオープンしました。

 1965〜66年の寒い冬、父がこう言ったのを覚えています。「ロンシャンのスタンドを作りに行くよ。もしうまく行かなかったら、我々は解雇されるからね」。


1968年:5月革命の年に奨励協会に就職

 父はまず、私の1つ年上で経済学を学んでいた兄に奨励協会に就職することを勧めました。

 しかし、兄はむしろ馬主、生産者およびアマチュア騎手を志望しました。兄は、ガリアーニ(Galiani)、アルナスル(Al Nasr)という2頭のG1勝馬を育て、アンドレ・ファーブル(André Fabre)調教師に初めてのG1勝馬を提供しました。不運なことに、兄は50歳のとき急逝しました。これは私の人生において最悪な時期の1つでした。私は今でも毎日彼のことを考えます。

 1968年1月15日、私は法学部の2回生のときに、研修生として奨励協会に入りました。そのときに、5月革命(mai 68)が起こりました。私は、バリケードを築くか、奨励協会で本格的に働くかの選択にせまられました。1968年の年末に父は情報処理化業務をする人材を探しており、私は正式に協会に入会しました。業務を学び、最低限の責任を持つのに10年かかりました。現在とはかなり異なって上下関係の厳しい機関で、私は一つひとつ梯子を登って行きました。なぜなら、その頃はかなり権威のある理事長のほかに事務局長と事務局長補佐がいるだけだったからです。その点、現在のフランスギャロ(France Galop)は、いくつかの部門で構成された近代的な組織になっています。


1983年:職種代表者の参入

 1983年、ユベール・ドショドネー(Hubert de Chaudenay)会長は、奨励協会の委員会を競馬関係の競馬関係の職種代表者に開放しました。それまで委員会は全体的に、準会員が推薦し合うかたちで構成されていましたので、これは本当の革命でした。

 この改革がなされた時期は大きな転換期でした。なぜなら、これまでの準会員の半分を能力によって確保しながら、エリー・ドブリニャック(Elie de Brignac)氏、ローラン・ドシャンブュール(Roland de Chambure)氏、ベルトラン・ベランギエ(Bertrand Bélinguier)氏、ジャック・ブシャラ(Jacques Bouchara)氏、ジャン=クロード・スルール(Jean-Claude Seroul)氏などの各職種の偉大な指導者を委員会に迎えることができたからです。

 私たちは、経済状況の停滞期に実現したこの奨励協会の開放により、国家または繋駕競走に対して、より団結し、より強くなることができました。本当に重要な転機でした。


1993年:過酷な試練

 父は率直な物言いをする人で、思っていることを人に打ち明けました。私はこの知的な正直さを維持しようと努めましたので、多くの敵をつくりました。父の死後、しばらくは順調な道のりでしたが、フランスギャロの前身であるGIEギャロ協会(GIE Galop)で疎外される経験をしました。1993年半ばからジャン=リュック・ラガルデール氏が来る1995年までの2年間は大変つらいものでした。私は理事長でありながら、組織の底辺にいるように感じました。転機となったのは、同じ時期の国際競馬統轄機関連盟の創立です。私はもはやフランスの機関の統轄者ではなかったのに、1994年3月には世界競馬の会長となったのです。逆説的な出来事でした。その当時はつらい思いをしましたが、真の友人を知ることができたのは貴重な体験でした。屈辱的なことも多かったのですが、それは私を成長させ、私は時には後退することが必要であることを学びました。


1995年:ジャン=リュック・ラガルデール氏の登場

 カリスマ性のある偉大な指導者ラガルデール氏は、競馬のあり方を変える視点を持っていました。それは、フランス場外馬券発売公社(Pari Mutuel Urbain: PMU)が賭事を受け付ける競走を地方に分散化する構想です。私はある日、ラガルデール氏がこう言ったのを覚えています。「なぜ、PMUの5連勝馬券(Quinté)の発売対象レースがすべてパリやパリ近郊の競馬場のレースに限られているのか、理解できません。地方のレースも発売対象とする分散化を行うべきです。政治家や国の力も借りましょう」。私はパリと地方では競走の質が異なり、出走馬が賭事客によく知られていないので、私たちは馬券の販売促進をためらっているのだと説明しました。彼は、「分りました。余り深く考え込まないで、まずはリヨンでテストしてみましょう」と言いました。1996年のリヨンでのテストは大成功を収めました。リヨンには政治家たちが集まり、ラガルデール氏も現れました。この分散化によって、競馬はもはやパリだけのものではなく、国全体のものであるというイメージが確立し、競馬を発展させることができたのです。続いて競馬専門チャンネルであるエキディア(Equidia)が創設され、理事会に国が介入し、PMUの変革がなされました。ラガルデール氏は、“国は保護者ではなく、むしろ私たちのパートナーであるべきである”と考えていました。このパートナーシップにより、フランスは欧州の抱える問題に取り組むのに十分な団結力を得たのです。

By Adeline Mouatadiri

[Paris Turf 2007年10月5日「Le dernier Arc de Louis Romanet」]


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