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関係者回顧録5:「ARFアジア競馬連盟での思い出」 
 


小池 尚明 2代目JRA国際渉外担当総括監

○ 初デビューの思い出

n_koike.jpg私がアジア競馬連盟の仕事に直接携わるようになったのは、2003年3月にニュージーランドのオークランドで行われた第29回アジア会議からである。この時点から前任の今原照之氏の後任としてARF副会長という立場で様々な国際会議に出席することとなったが、当時の私に課せられていた主要な課題としては、(1) 日本のパート I 化を早期に実現すること、(2) 香港と日本で2002年に締結していた善隣政策調印を世界的な広がりとしていくことであった。

本来、アジア会議の趣旨は競馬開催国の友好親善と相互交流を深める場として行われてきたが、2001年の第28回アジア会議バンコク大会でアジア競馬連盟に名称変更した頃からは、単なる友好親善の場だけではなく、各国が抱える諸課題に共通して取り組むための意見集約の場となっていた。したがって、凱旋門賞に合わせて行われるパリ会議はもとより、ドバイWCや香港国際、ジャパンカップ、ロイヤルアスコット、ブリーダーズカップなどに合わせて様々な国際会議が行われるようになっていて、私が参加した主な国際会議としては、IFHAとARFの執行協議会、WRCワールド・レーシング・チャンピオンシップ会議、AMCやGSCなどの国際間シリーズ競走会議などであった。

第29回アジア会議オークランド大会を終えて間もなく、2003年6月に行われたIFHAの執行協議会に国際企画課の伊藤裕副長と初めて参加した時のことは今でも鮮明に覚えている。朝の9時から夕方5時までマシンガンのように飛び出してくる英語に悪戦苦闘しながら、聞いているだけでも疲れるのに、13項目にわたる様々な議題を審議するたびに「これは日本はどうなのか?」などと発言を求められ、伊藤副長と目を白黒させて答えていたのを思い出してしまう。その時出席していた主なメンバーは、フランス以外では、米国JCのHans J. StahlとAlan Marzelli、米国NTRAのVan Clief Jr、英国JCのCristofer N. Foster、BHBのTristram Ricketts、OSAFのJosé Luis Caldani、愛国ターフクラブDenis Egan、香港JCのLawrence T Wongなどであったが、ほぼ英語を日常語として使っているメンバーであり、アジア会議の時のように片言英語でもなんとかなるような甘い立場ではないことを痛感させられた。正直、えらい役回りを仰せつかったな〜〜と思いながらも、当初の目標であった日本のパート I 化に向けた取り組みとして、まずはIRPAC(国際格付番組企画諮問委員会)やICC(国際クラシフィケーション委員会)、TAC(専門諮問委員会)などの各種委員会に日本メンバーが委員として参加できることとなったのは、会議前夜の夕食会でロマネとイザベル夫人に事前の根回した結果かな〜〜とも思いながら、なんとか会議を乗り切った安堵感も味わうことができたデビュー戦であった。


○ ロマネ夫妻と父親との思い出

IFHAの会長であり、フランスギャロの事務総長であったルイ・ロマネLouis Romanetと一緒に仕事をしだしたのは、前述の2003年6月のIFHA執行協議会からであるが、その時彼に会った時、「この人があのジャン・ロマネJean Romanetの息子なんだ!」と思い出したことがある。実は、大いなる昔話であるが、フランスギャロの前身であるフランス馬種改良奨励協会Société d' encouragement pour l' amélioration des races de chevaux en Franceという長い名前の協会の事務総長であったルイ・ロマネのお父さん、ジャン・ロマネの事務所に押し掛けて行ったことを思い出したからである。

この時の思い出話をすると長くなるのだが、掻い摘んで話をすると、昭和51年、1976年の10月に海外獣医研修の途中でフランスに入った際に、馬種改良奨励協会の事務所を訪問して、畏れ多くもジャン・ロマネに直接時間を割いてもらって、日本の競馬事情や競走馬の調教法を説明させてもらったという大胆な行動を取ったことがある。

今思い出しても冷や汗ものであるが、当時私は未だ33歳の怖いもの知らずの若造であったために出来た行動であり、その頃、凱旋門の近くにあった奨励協会の事務所に日本から持ち込んだスライドや写真などを使って、大胆にもジャン・ロマネに直接説明したことを今でも懐かしく思い出される。

当時のNCK日本中央競馬会は順風満帆の時代であり、入会10年目ぐらいの獣医を対象に毎年1名ずつ2か月を超えるような長期の海外研修制度が実施されており、私の場合、「競馬先進国の科学的調教法の視察」という漠としたテーマを携えて、イギリス・アイルランド・スウェーデン・ドイツ・フランスなどの欧州各国とアメリカ大陸を約70日かけて、たった一人で旅して回ったことが、その後のわが人生に大きな影響を与えた節目の出来事であった。

今でこそ、海外旅行など日常的で当たり前の時代であるが、組織として考えた場合、今の時代でもJRA職員を若い段階で海外に派遣し、海外諸国の異なった価値観との遭遇、外国人と直接的ふれあい、たった一人で動く海外生活などを体験させることは、社会人としての成長を促す有効な手段となると思うので、是非、JRAにおいても継続してもらいたいものである。

少々脱線してしまったが、それ以来ルイ・ロマネとは奥さんのイザベルと共に家族ぐるみの付き合いをさせて頂いたが、ルイは父ジャンとは風貌も異なり、スラリとしたダンディな紳士であるものの、根は頑固であり、怒る時は額に青筋を立てて迫力を感ずる。イザベルとの結婚についても、ロマネ家一族の反対を押し切って結婚してしまったことは有名な逸話であるが、この一件でも彼の頑固者な性格が窺えるのではなかろうか。

パート I 国入りを目指す我々の戦略の一端として、“将を射んと欲すれば先ず馬を射よ”という故事に倣い、稚拙ではあるがパリを訪問する際にはイザベルへのお土産を携えていくこととし、七福神の絵柄を彩った舞扇子を京都の扇子問屋に買いに行ったり、ロマネ夫妻の夫婦仲が良いことに着目して、日本の仲睦まじい夫婦の例えに“オシドリ夫婦”というのがあるから、オシドリを描いた七宝焼きの額縁を用意して持っていったりした。しかし、後で博識の者からオシドリの実態を聞かされたところ、「オシドリのオスは交尾をしてメスが卵を産むまでは一緒にいるが、産んでしまうと抱卵や子育てすることもなく、他のメスのところに求愛に行ってしまうとんでもない鳥だぞ」などと教えられ、その後はあまり詳しく説明しないこととした。

しかしロマネ自身、なぜか昔から日本びいきのところがあったようで、日本競馬のパート I 化については、米国とカナダの反対攻勢のある中で、それこそ献身的な支援をしてくれたことに今でも深く感謝している。また、奥さんのイザベルは本当に気さくなスペイン女性で、会うたびに大きな声を上げて頬ずり、いわゆるハグをして歓待してくれたことも懐かしい思い出である。しかし、間もなく乳癌が見つかり、闘病生活を続けていた中でも、私を見つけると多少緩んだ頬を私に擦り付けてきて愛想を振りまいてくれたのだが、一方でルイの方は気の毒なほど落ち込んでいたのも忘れられない。彼の献身的な看病の甲斐なく、2013年に3月に亡くなられてしまったことに、しばし黙祷。

しかし、イザベルが亡くなる前の2010年の春の叙勲で、外国人の競馬関係者として初めてルイ・ロマネ氏が「日本の競馬の国際的発展、軽種馬生産を通じた日本の畜産振興に寄与した功績」ということで“旭日中綬章”を授与されたことは、彼の功績に報いる大きな節目となったのではなかろうか。


○ ローレンス・ウォンとの思い出

香港JCのCEOであったウォンとは、2003年のARCオークランド大会からARFの会長、副会長という立場で一緒に仕事をすることとなった。ARCのイベントでサーカスのような催しが行われたが、あまり面白そうな顔せず、興味ないというような様子で “ずいぶんくそ真面目で面白味のないやっちゃな。”というのが最初の印象であった。しかし付き合っていくうちに、頭が切れるというか隙がないというか、周囲の状況を的確に判断し決断していくようなタイプで、顔はアジア人だが心は欧米人というような、自分が今まで付き合ってきた人間とは異なる人種であると感じるようになった。彼の経歴をみると、1996年に香港JCのCEOに中国人として初めてヘッドハンティングされたが、それ以前は、台湾フォードの社長として会社を台湾のマーケットリーダーに押し上げ、台湾の“Businessman of the year”になった人間だということだった。それ以前は、アメリカで機械工学を専攻し、航空宇宙工学の博士号まで取得して、アポロ計画の宇宙飛行士になるかもしれなかったと聞かされて、“それは自分の周りにはいない訳だわ。参りました!”という感じであった。

その後、ARFとIFHAの執行協議会をはじめ、主要な国際競走等の会合で、ウォンとは10数回に亘り一緒に行動したが、彼の唯一の欠点と言えば時間にルーズなことであった。IFHAの会合などでロマネをはじめ、世界の要人が決められた時間に集合しているにもかかわらず、毎回のように10分程度遅れてくるので、皆“またか”とあきれ顔で待っているのだが、悪びれる様子もなく悠然と入場してきて、さあ始めようということになる。このへんの習慣は台湾フォードの社長時代からのものであったのかもしてない。

また、2005年3月のドバイWCに合わせて行うARF執行協議会の時であったが、会議の直前になってウォンから電話があり、「私はドバイに行けなくなったので年長者である君が議長をやって、ARC韓国大会のセッションなどの中身を纏めてくれ」と電話があり、“謀られた”と悔やんだことがある。普段の会議では、一人の参加者として議事の流れを見ながら、発言すべき時がきたら発言すればよかったが、議長となるとそうはいかない。“どう議事を取りまとめるか”、“その中で自分の意見をどう反映させるか”などと考えていると、訛った英語を機関銃のように繰り出すボブ・チャーリー(豪)やガイ・サージャント(新)、サイラス・プーナワラ(印)の発言は意味不明となり、普段だと2時間ほどで終わる会議は倍近い時間が掛かってしまった苦い思い出である。今ではJRA佐藤浩二総括監がARF会長として、常時、会議の議長をやっていると思うと、改めて時の経過を感じ入るばかりである。

もう一つウォンとの思い出を話すと、彼が最も力を入れていた案件の一つが2005年5月のARC韓国大会であり、自分がARF会長として一切を取り仕切った中で第30回目の記念大会を成功させたいという思いであった。そこで彼は、予定会場や宿泊ホテルなど事前視察をすると共に韓国側の意気込みを確認しなければならないと言い出し、前年の11月に執行協議会メンバーで視察することになったのだが、オーストラシアのB.チャーリーと事務局のA.ハーディングは直前になって来られないことになり、渋々、ウォンと私だけで視察することになったことがある。自分はさて置き、他人が都合で来れなくなると、不快感を露わにするところが偉い。ホテルと大会予定会場は、ソウル中心街にあるインターコンチネンタルCOEXという素晴らしい施設であったが、彼はホテル客室の中や会場の控室など細かなところまでチェックする念の入れようだった。その後の打ち合わせの席にはKRAの理事長である朴昌正氏も同席し、そこでいくつかの注文を韓国側に出したのだが、それは (1) オープニングセレモニーには約1000名の聴衆が集まる予定なので、その場で競馬が韓国社会と経済に果たしている役割と貢献について韓国側から発表すること、(2) 歓迎ディナーには韓国の要人(例えば大統領)を招待し、それら要人と海外競馬主催者の主要メンバーと交流できる場を作ること、(3) ARF記念競走のトロフィーを用意するのでプレゼンターを確認しておくことなど、結構、単刀直入に指示していたのが印象的であった。

また、その日の夕食会では善隣政策の話に及び、韓国の次にARC開催国に予定されているドバイは、ARF加盟国の中で唯一善隣政策に調印していない国なので、開催地としては不適格であり、もし、ドバイに調印の意思がない場合には、2007年に日本で開催することができないか?と言い出し面くらったことがある。結局、その後ドバイも善隣政策に調印することとなり事なきを得たが、私としてはウォンの即決即断手法には驚かされることが多かった。

その後、ARC韓国大会も成功の裡に終了し、ARFの運営はウォンのリーダーシップにより順調に進んでいったが、私は翌年2006年の3月に行われたドバイでの執行協議会で後任の滝澤勇君にARF副会長をバトンタッチすることとなった。しかし、その場でもひと悶着あって、インドのプーナワラ氏から副会長選任方法に異議申し立てがあって、競馬小国にも執行協議会の副会長などの役職を与えるべきだと言い出す場面があった。この場面でウォン会長は、「小池氏の後任選出についてはARF執行協議会の専決事項であり、多数決により決定する。インドに不服がある場合、正式に書面による異議申し立てを行ってほしい。ただし、ARFの役職を競馬小国も含めた持ち回りとする場合、シンガポールや南ア等、競馬開催面でインドより実績のある国から現在の執行協議会の編成に異議申し立てが起こる可能性があることを認識してくれ。」と突っぱねた。

以上のように、彼の組織運営手腕は胸の空くような大胆さがあったが、一方で、香港JC内部ではアカーリー会長以下のボードメンバーとそりが合わないところがあったようで、同じ年の5月頃には、香港の東方日報に“L.ウォン氏更迭か?”といった記事が出だして、2007年の1月にEBさんこと、Winfried Engelbrecht Bresges氏にCEOの座を譲ることとなった。チャーミングな奥さんのアグネスと共にウォン氏とは3年間の付き合いであったが、色々な体験や知識をもらって本当に感謝している。今、何処にいて、どのような仕事をしているのか消息不明であるが、是非もう一度会ってみたい夫妻である。


○ ご家族との思い出

当時の国際会議では、日本のパート I 化問題や違法賭事と善隣政策、薬物規制問題など多くの難題を抱えた中で、いかに日本の立場に理解を得て、日本親派を作っていくかが大きな課題であったが、会議の中で主張してもなかなか埒が明かないのも事実であった。そこでロビー活動と密談作戦に頼ることになるのだが、当時の国際会議は妻同伴で出席するというのが一般的であったため、先に述べたように、“将を射んとすれば先ず馬を射よ”を念頭に、会議に同伴していた要人の奥さんたちに媚びうる作戦を実行した。欧米人の家庭では、日本と比べて奥さんの地位が高く、奥さんに言われるとなかなか反論できないのが一般的のようである。その点ではわが家庭も欧米風といえるが、わが妻、千香子にお願いして、会議の前後に行われる晩餐会や見学ツアーなどで一緒になる要人の奥様達の名前を覚えてもらいながら、それとなく家族構成や家庭の様子なども聞いてもらったりした。

以下に、当時さまざまな場所でお会いした主な要人の奥さんの名前を列記したが、旦那の所属は当時のものであり、なかにはすでに離婚してしたり、死に別れてしまっている人もいるので悪からずお断わりしておく。

L.ロマネ―(仏ギャロ)=イザベル
L.ウォン(香港JC)=アグネス
C.フォスター(英JC)=アンシア
P.サビル(前BHB)=ルース
T.リケッツ(英Levy Board)=アニーことアン
G.ニコルス(BHB)=ヴィクトリア
B.カバナフ(愛HI)=ダイアナ
D.イーガン(愛TC)=ゲラルディン
F.ジョワイユ(独IC)=ティーナ
A.マルゼリ(米JC)=エレン
D.ウィルモット(加ウッドバイン)=スーザン
B.ベランギエ(PMU)=ナタリー
A.ラムズデン(豪ARB)=アン
G.ダフ(豪R.ビクトリア)=ボニー
L.チャーリー(豪ARB)=ニーナ
G.サージャント(新NTR)=メラニー

この中でいくつかのエピソードを紹介すると、まず始めに挙げたいのが英国で“サー(准男爵)”の称号を持つトリストラム・リケッツ氏と妻のアンとの思い出である。2003年のARCオークランド大会の時に、私の前任者の今原総括監主催で海外参加者との懇親夕食会を開催した時に、IFHAからの招待者の一人として、トリストラム・リケッツと奥さんのアンも参加していた。リケッツは私より3歳若い1946年生まれで、身長190cm、体重たぶん100 kg を超える大柄な体躯であり、家柄もサーと呼ばれる良血統なのだが、150cmほどの小柄なアンに監視されながら、食事をしていた姿がとても印象的であった。アンは、競馬や家庭の話などをしているうちは、にこやかに話をしてくれるのだが、いざ食事になってリケッツが肉系の料理やワインに手を出そうとすると、まるで虎かライオンを躾ける女調教師のごとく、ジロっと睨んでダメ出しをするのである。それを見て大柄なリケッツは、すごすごと思い止まってしまうのが可哀そうでもあった。その後、いろいろな所でリケッツ夫妻とは一緒に食事をする機会があったが、その様子はいつも変わらなかったので、ある時アンに“なんでそんなに食事制限するの?”と聞いてみたら、“ほっておくと何でも食べちゃうからダメなのよ”と答えにならない答えであった。しかし、その後まもなくして、IFHAの会議には体調不良で参加できなくなり、2007年11月に癌のため61歳の若さで死去したことを知ると、やはりアンの心配は当たっていたのだな〜〜と改めて彼女の先見性に頭が下がる思いであった。

もう一組の夫婦を紹介すると、M.アクリンARF前会長の後を受けてニュージーランド代表としてARF執行協議会に参加していたガイ・サージャントとその妻のメラニー夫婦である。

ガイ・サージャントは、ニュージーランド北島中部にあるマナワツManawatuという田舎町出身で、馬ばかりでなく、牛や羊、シカなども取引する畜産農場で長年働いてきた経歴の持ち主であり、風貌や喋り方は“田舎のオッサン”タイプで、前任のアクリンとはまるで違って見えた。一方、奥さんのメラニーも同じ北島中部にあるパーマストンノースPalmerston Northという大きな都市出身であるが、その当時も現役の弁護士をしている才媛であり、風貌や喋り方も品がある都会人という感じで、“どう見ても似つかわしくない夫婦だな〜”という印象だった。しかし、“恋は盲目”というからこの様な夫婦もありかと思って付き合っていた。

私は、ガイとはなんとなく馬が合ってARFの会合ではいつも冗談を飛ばしながら、会議の進行などを手伝ってもらっていた。2005年のアジア会議ソウル大会では、「競走管理と競走馬」というビジネスセッションで共同議長を務めてもらい、裁決基準の統一化とか薬物フリーの重要性などを一緒に進めることができて感謝していた。そのような関係で、彼がメラニーを同伴してきた会合では夫婦ぐるみの付き合いをしてきたのだが、12月の香港国際(?)の時だったと記憶しているが、夫婦の様子がいつもと違う感じで、我々夫婦と話すときは笑い顔を見せるのだが、夫婦で一緒にいる時は何となくよそよそしく見えるようになっていた。案の定、それから間もなくして離婚したことが分かったが、当時二人には中学生くらいの“エマ”と“サム”という姉弟がいることを聞いていたが、その後どうなったのかは聞いていない。“恋は盲目ではなかった”という話である。

この二組の夫婦ばかりでなく、豪州のボブこと、ロバート・チャーリーの奥さん“ニーナ”のキャビアの大食いの話や、ARB会長のラムズデンの奥さん“アン”の煙草嫌いの話などいろいろありましたが、内外を問わず“夫婦関係ほど魑魅魍魎な世界はない”という教訓を皆様にお伝えして終わりとします。

 

小池 尚明 (こいけ なおあき)

昭和18年(1943)8月26日生まれ。昭和41年(1966)日本中央競馬会入会。美浦トレーニング・センター競走馬診療所長、新潟競馬場長、生産育成対策室長、日本中央競馬会理事、日本中央競馬会常務理事を経て、平成15年(2003)2代目JRA国際渉外担当総括監に。平成18年(2006)財団法人競馬国際交流協会4代目理事長に就任。

 


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